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2007年8月 6日 (月)

関心のもち方を整理すること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■関心のもち方を整理すること

ところでここまでくると、そのようの教師の考えに同調するばかりでよいだろうかという疑問がわくであろう。
ここでも一つ考え方を改めなければならぬ。教師は考え方を訓練するためには、考え方の訓練をするという立場に立って、教育をして行くのである。今までのように何かを説明してわからせるなどという考え方でない。覚えさせるという考え方ではない考え方を取るのである。つまり論理の使い方を訓練するのである。
どういう考え方を訓練するかは十分計画的にねらわれなけれならぬ。それは最も大切なことで、この論文の中で順々に論じてみたいと思っている。今はそこまで考えないが、ともかく、教師は現代の社会がもっているものの考え方を代表して、生徒を訓練しているのである。ただ教師個人の考えていることを押し付けているのでない。一つのことに様々な考え方があればそれをそれぞれ訓練して行くのである。そういう考え方に立てば教師の考えに同調するというのは、実はわれわれの社会がもっているものの考え方を、生徒もたどることができるように訓練するということなのだというように考えることができるであろう。そういうことができるようにしないでは、人を教育したことにならない。人を育てたことにならないのである。

 さて、ここでもう一つの問題が出て来る。それは予備的考察で問題にした第三のことと関係があることである。
そこで物を見て考えるというのは、話を聞いたり、本を読んだりしながら考えるのと非常にちがった要素があるということである。物を見て考えるというのは、その根底に関心がある。自分自身の関心のあり方が考える筋を動かすのである。人の話を聞いたり、本を読んだりするのは、その関心は相手のもっているものである。問いの出し方は相手のもので、自分はその点については相手に従っておればよいのである。

 ところが自分が物に対したときは、考え方を進める関心の方向も自分のものなのである。何を問い、何という答えを引き出すかは、見る人にかかっているのである。前にも述べたように、我々は石ころに向かって、これはおいしいかなどという関心をもたない。関心の方向が決まっているのは、石ころについてあることを知ってるからである。その関心の方向を身につけているからである。知らず知らずにもっているともいえるかも知れない。そこで、物に向かって考えることができるようにするには、関心のあり方を身につけさせるという訓練があらかじめなされなくてはならぬのである。
 ところが話を聞くのも、本を読むのも、もっと本質的に考えると、物にむかって考えているのである。それを教師がある符号であらわしているが、本当はその符号、つまり言葉で指示しているものは具体的な物事なのである。自然のことであったり、世の中のことであったりするのである。そしてそれだからこぞ、その話を聞くのはただ考えを進めるだけでなく、同時にその物に対する関心のあり方を知らず知らず受け取っている。それが自覚的に、計画的に行なわれないので、自覚的、計画的に受け取られていないというだけなのである。
 物に向かって考える場におかれると、その関心の方向が出て来るのである。なんとなくであるが、関心の方向は決まっている。常識的な関心の方向は、物を見るとすぐにでてくるその外面の形とか、色とか、大小とかいったものである。そういうものについて判断はだれでもできる。知らず知らずその中にそういう関心を身につけているのである。

 さて、科学などで物を見る、考えるときには、そういう常識より一歩進んだ関心の方向が必要なのである。それが根底になければ考えは進まない。そういう物に対して、その物はどのような問いを出すものとしておかれているかという物への関心のよせ方を訓練することは、科学的な思考というようなことを問題にする時には特に大切なのである。そういう訓練はこれまで行なわれていない。今までの教育は物への対し方ではなく、ある対し方で対してとらえた結果だけを断片として与えることに中心があったからなのである。それが暗記というような受動的態度を生み出してくるのである。

 ところで物に対して一定の関心の方向で対しているが、その関心の持ち方が転換して、新しい関心から考えが進められるとき、独創的などという、そういう独創的なものは、本当に独創的と言われるためには、在来の関心の方向の整理の上に、それぞれのアンチテーゼとして出るものであろう。独走とはでたらめな思いつきではない。在来の関心の整理と関係ないものではない。だから独創的思考とは、そういう思考の結果をいうのであって、それは生徒に要求することはできない。生徒を訓練するのはそのプロセスである。正しいプロセスをふませる訓練をしなければならない。一つの物に対して、どのような関心がもたれているのか、それを整理してみるということ、それ以外に関心の持ち方はないのか、というように考えてみること、それを通じて、結果として独創的なものが生まれることもあるであろう。訓練すべきことは、そういう態度をもたせることである。一定の関心は、一定の考え方を伴う。目標は一体のものである。それをしかし、二つの教育訓練の同種としてはっきり考えてみることは極めて大切なことである。

 たとえば一つの関心に基づいて、考え方を進めて、それが行き詰まる、そのときは、その関心を一度考え直してみる。そして新しい問いの出し方をして、考え方を進める。こういう態度は大切である。それを具体的に訓練してやらなけば、本当に思考する世界に人間をいれることはできないのではないか。
 次にはもう少し具体的な事例で考えてみよう。(未完。次号へ)

2007年8月 5日 (日)

考えさせるということ

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■考えさせるということ

 以上が予備的考察である。思考はどういう条件で進むかということを考えたのであるが、それは、これからその思考の訓練について考えるためである。これからが教育の問題である。思考の訓練の場の条件を考えるわけである。

 ところで、はじめに一つだけ前提を考えておかなくてはならぬ。ここで問題とするのは「思考の訓練」であって、従来とかく教育で考えられていた、分からせるとか、覚えさせるとか、教えるとかいったこととはニュアンスが異なる。ニュアンスばかりでなく、実は本質が違うのであるが、それはおいおいわかっていただけると思う。つまり、考えることができるようにするということを問題にしているのである。

 考えることができるようにするには、考えさせなければならぬということはいうまでもあるまい。考えさせるというのは、先の予備的考察からすれば、話を聞かせても、本を読ませても、物を見せてもできることはできるということはわかると思う。しかしその場合に大切なことは、話を聞いたり、本を読んだりするものの考えるという働きが大切なのであって、教師が話をすることイコール生徒が考えるということではないのである。教師の話が刺激となって生徒の思考が進まなくてはならないのである。聞けども聞こえずという状態で音を聞くのではない。聞くことイコール考えるという形で、聞く働きが進まなくてはならぬということである。

 それには聞きながらつかえるところがあったら、それがその場ですぐ解消されなければならない。生徒がつかえている間に教師の話が先に進んでしまえば、生徒は考える活動を中止しなくてはならぬ。それでは考える訓練をさせることにはならない。

ところで教師は一つの考え方を進めているのである。それを話しているのは、生徒にもそのように考えてもらいたいのである。それは話の変わりに文字で書いても同様である。それを読んでそのように考えてもらいたいわけである。一つでもつかえてその考えが進まないということがないようにしなくてはならなぬのである。そうするには教師は結局、ゆっくり、一くぎり一くぎりずつ話してゆく。あるいは読んでもらうということにするより仕方がない。そして一くぎり一くぎりわかっていって、全体がわかれば一応教師と同じように考えてもらったということになるであろう。
 
 しかしそれで考える訓練をしたことになるであろうか。それは確かに一つの段階ではあるが、考えるということはいつもそんなにゆっくりと進んでいるものではない。教師と一緒に考えてもらいたいと教師が思うことの中には、その考え方の筋がたどられるということの他に、時間的な要素も含んでいる。つまり一定のスピードで、そう考えてほしいのである。すらすらと考えてほしいということを含んでいる。そうなってはじめて、教師が考えたと同じように考えたことになるのである。そのような訓練が実は大切な訓練である。そこではじめてゆっくりと一くぎりごとに話して聞かせて、一緒に同調してもらう。その次にはもっと早めに話して同調してもらう。こうして教師が考えることと同じように考えることができるようになれば、はじめて、ある一つの考え方を身につけたということになろう。
 
 このプロセスは、何か一つの技能を身につけるプロセスとよく似ていることに気づくであろう。たとえばダンスを習う時、クイック、スロー、クイック、スローとはじめはゆっくりやり、くり返してしだいに早くなっていくプロセスを想像してみるとよいであろう。考えるということも一つの技能として身につけて行く必要があるのである。

 話をしたり、物を読ませたりして考えを訓練して行くには、上に述べたような配慮が必要である。そうなると、一番重要なことは、生徒のペースである。そのペースが次第に早くなって行けばよいのである。それは50人の一斉授業という形ではなかなか考えられないから、個別の方式をとらなくてはなるまいということになる。話を聞くのも、本を読むのも、結局同じように考えるというのであれば、話のかわりに、読む物によって思考の訓練をしてもよいことになるのではないか。(つづく)

■関心のもち方を整理すること

物を見ること・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■物を見ること・考えること

 さて次に、物を見ることと考えることとの関係はどうであろうか。見れども見えず、などという言葉があるように、見るというのもなかなかむずかしい言葉である。見てもみえないというのだから、見るというのは単に視覚だけではない。聞くということが単に音の問題でないと同じである。ごく簡単なこれは何々であるというように判別するだけの「見る」でもやはり、それとそれでないものを区別する働きがある。
 
 「これは悪い道だ」というのは、よい道との比較をしているのである。そうみているのは、そう考えているのである。しかしこの場合、聞くとか読むとかと非常にちがった性質があるのは、道は何も語ってはいないということである。これは悪い道だと考えるのは、全くこちらの考えることであって、道はそう言っていないし、書いてあるわけでもない。見る人、考える人の主観の問題である。だからある人は、その同じ道を歩いても、これは悪い道だと考えないかもしれない。たとえば、ふだんからそういう悪い道を歩いている人で、道とはそういうものだと思っている人は、これは悪い道だという判断をしない。そういうものとして見、考えないわけである。ふだんよい道を歩いている人は、道とはどういうものかという経験をもっているから、それと比べてこれは悪い道だというように考えるのである。しかしそういう人でも、その道を見るときの関心のあり方によって、これは悪い道だなどと考えないかもしれない。全く別なことを考えてその物に対していれば、例えば、狭いか広いかという関心だけに手中していれば、例えば、狭いか広いかという関心だけに集中していれば、その点だけが見えて、よしあしは見えない、考えないことがある。結局、関心の方向がそう考えさせるのである。

 関心の方向はある意味で無限だといえる。ただ理屈の上でいうなら、何でも関心の的になりうる。関心というのは「問」と言い換えてもよいであろう。この道は狭いか広いか、歩く道と車道と分かれているか、よいかわるいかなどというほかに、理屈の上では、食べられるかどうか、おいしいかどうか、金をもっているかどうかなどという関心もありうる。ただ私たちは道は食べ物ではないということを知っている。だからそういう関心をもたないのである。道に対して食べられるかどうかなどという問いを出したら気違いだと思われるだけである。つまり普通人ならば、その対象に対してどういう問いを出すか、関心を持つかはおのづから決まっているということである。

 われわれは現在あらゆる対象に対して、ある方向の関心を持つように作られている。教えられているといってよい。太陽は怒るかどうか、文字通り怒るというような問いは太陽に対しては出さない。昔はそうでなかった。現代でも未開社会ではそういう方向で関心をもつ人々もいるが、われわれは今はそういう関心はもっていない。一定の関心のもち方を教えられているからである。それが正しいかどうかは別のことであるが。
 
 ところで、話を聞く、書いた物を読むときのその聞かされる話の内容、読まされるものは、話し手、書き手の関心によって、考えが動いている。「この道は悪いですね」と語る、あるいは書くならば、それはその人がその関心をもとにして物を、つまり道を考えていることになる。聞き手、読み手はその関心に動かされて、その通りだと考えていかなくてはならない。

ところが、話し手、聞き手がなくて自分が道に対したときは、自分の関心によって考えを進めるわけである。その道への対し方は全く自分のものでなくてはならない。いかなる問いをもつかということは、自分の問題である。ここが話を聞くとか、書いたものを読むとかというときと異なるといわなくてはならぬ。つまり考えるという行動を導くもの、考えをすすめるもう一つの根底にあるもの、関心をもっていなくてはならぬということになる。いいかえれば、対象、今の例でいえば道であるが、道に対する関心のもち方、問いの出し方を身につけているということが重要であるということになる。(つづく)

■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること

2007年8月 3日 (金)

本をよむこと・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■本を読むこと・考えること

 本を読む場合は、話を聞く場合の音が眼を通じて入ってくるということになる。その他の点では聞くということと変わりない。ただ文字を読むというのは、音の場合のように消えてなくならないから、その点は考えるのに有利である。自分で見直すことができるからである。くり返すということが可能になる。
 
 ところで、もう少し論をすすめてみる。これは話を聞く場合でも同じことであるが、文字の場合の方がわかりやすいからここで考えるわけである。たとえば文字は一つの符号であるから、それが指示する具体的な事実があるわけである。
 例えばここに問題にしている「本を読むことは考えることとどういう関係があるか」という文章でも、そこには本という符号で具体的なあるものを指示しており、読むということも具体的なある行動をとりあげているのである。しかしこれを読むものからすれば、本を読むという文字のつながりで頭の中に思い浮かべる事柄は人によって必ずしも同じではないであろう。本というのも、読むというのも、かなり巾の広い意味を含んでいるからである。ということは、文字に書かれていることを刺激として考える場合も、実際は読んでいる者が、自分のもっている物を材料にして読んでいる、考えているということである。そうして相手の書いたことを理解したといっても、それは自分のもっている限りの力で理解しているので、やはり自分なりの理解である。それが相手と全く同じかどうかは、もっとつきつめていかなくてはわからない。つきつめていけば、相当な所まで同調し得るであろうが、文字による場合はつきつめるということは普通行なえないことが多い。話を聞く場合だと、その場でつきつめることもできるが、文字の場合はむずかしいのである。
 しかし本質的に、話を聞く場合も、文字を読む場合も、自分のもっているもので考えているということは変わらない。外からは刺激が与えられているということである。自分が考えるから、相手の話がわかり、相手の書いていることがわかるのである。わかると思うのである。むしろ、自分で考えていることが自分でわかるということなのである。そして、相手をそう考えていると思うということである。
 
さてこのように考えてくると、人は話を聞いたり、本を読んだりして、自分なりに考えてわかっているということになる。この場合、自分で考えているのだということは大切なことである。ただ考えているといっても、それは、相手の話を聞いて、あるいは文章を読んでわかったと思うときにおいてそうなのであって、聞いてもわからない、読んでもわからないというのは、そのように考えられなかったということである。
(つづく)
■物を見ること・考えること
■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること

人の話を聞くこと・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■人の話を聞くこと・考えること
 人の話を聞くのは自分で考えることではないと一般には思われている。果たしてそうであろうか。なるほど話す人は自分で考えた結果を話す。その意味では聞く人は自分ではじめて考えているのではない。しかしはじめて考えているのではないが、聞いているというのはただ耳に聞こえているということではあるまい。そういうのも聞いているという言葉で表すかも知れないが、それは聞けども聞こえずの類であろう。聞けども聞こえずというのは心がそこにないからだという格言があるが、それは聞くということは心をこめて聞くことで、ただ音を聞くという問題ではないことを言っているのである。
 音はさまざまな符号の系列として耳に聞こえてくるが、それが鼓膜にふれて,大脳細胞に伝わるのである。そこで大脳細胞が符号に従って働くのである。それが話す人に全く同調していれば、話す人と同じように考えているということである。
 そういうように大脳が働かなければ、人の話しを聞いてもわかるとかわからないとか、正しいとか正しくないとか、おかしいとかいうことが自覚されないはずである。
 こういうふうにみると、人の話を聞くというのも正しい意味では、考えているということではないか。もっとも「四の五のいわずにおれのいうことを聞け」などというふうにいうこともある。これは聞くということが命令を意味する場合のことである。そういうときは四の五のということを否定する。つまり聞き手が聞き手としての考えをすすめることを否定する語がついて「聞く」という言葉を使っているのである。裏からいえば、聞くというのは本来は聞き手が聞き手として考えを進めて行くことであるから、特別にそれを否定するときは語を加えなければならぬということになるともいえる。
 さてこのように考えると、先生の話を聞くというのは決して考えないことではない。先生と生徒が一緒に考えていることなのである。ただ問題は一緒に考えることができるかどうかということである。聞くという立場に立って考えるときは、先生の話に同調するわけであるから、外の刺激で考えが進められる。その刺激の出され方が聞き手によってついて行けないような出され方の場合もあろう。そうなると聞き手は考えを進めることができないことになる。そういう意味では人の話を聞きながら考えるということは、よほどよい条件、つまり聞き手に適応した話が行なわれるという条件が必要である。
 「わかりやすく話してやる」などということを先生はよくいうが、そのわかりやすいというのは話し手の方の主観であって、本当にわかりやすいかどうかは聞き手の方の考えが進むかどうかということである。だから1学級50人の生徒がおれば、生徒の方の個性は50通りだから、その50通りの考えの進みに適応する話はなかなかできにくいということになる。聞く方のペースに合わせて話が出されるように考えればよい。
  同じ話でも、一人一人が自分のペースに合わせて聞けるように工夫ができればよいということになる。そういうことができれば、話をするということも考えさせることになるといってよいであろう。

プログラム学習における思考の訓練について

 1963(昭38)年9月、「教育フロンティア」という雑誌が教育出版から発刊された。サブタイトル「プログラム学習による教育の改造」。全国プログラム学習研究連盟責任編集とうたわれた活版刷り100余ページの季刊誌で、1965(昭40)年2月まで7回発行されている。
 国立教育研究所教育内容第二研究室長であった矢口は、1961年に学習オートメーション研究会を立ち上げ、翌年秋には約30の地方支部をもつ全国組織「全プロ連」を発足させ、委員長としてプログラム学習の研究と普及の先頭に立った。この雑誌はその運動の理論誌として、プログラム学習の理論、実践報告とともに、現場で作られた学習プログラムを多数掲載している。
 矢口は毎号、巻頭論文を書いているが、まず創刊号の「プログラム学習における思考の訓練について」をここに全文掲載する。
プログラム学習は、昭和30年代から40年代にかけて流行した教育と学習の方法原理であったが、いまはほとんど顧みられなくなった。なぜそうなったか。どこに問題があったか。プログラム学習のリーダーであった矢口の考え方をたどる必要がある。それは現在の教育課題を解決する鍵になるかもしれない。

以下はこの論文の冒頭に本文より小さな活字で書かれた前文である。
     ________________________
(前文)
 プログラム学習の方式では子どもに考えさせることができないのではないか、あるいは創造的思考をさせることができないのではないかなどという問題が出されている。それに対していまここにすぐ答えを出そうとは思わない。そういうことはもっと慎重に、また科学的、実証的に研究をしていくべきことだと思うからである。
 思考するとか考えるとかいうことも、わかったようでわからないことである。そういうことをもっと具体的にとらえてみる必要がある。教師の考え方を押し付けて子どもに考えさせないなどということがいわれるけれども、一体考え方を押しつけるとはどういうことなのか、従来のような授業だと押しつけることになるのか、ならないのか。プログラム方式だと押しつけることなのかどうかも、具体的に考えて見なければなるまい。「よく考えてごらん」などという言葉は教師によってよく使われるが、それは何を生徒に求めていることであるのか、そういうこともそれこそ具体的に考えてみる必要がある。

(以下、本文の見出し)
■人の話を聞くこと・考えること
■本を読むこと・考えること
■物を見ること・考えること
■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること