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2007年8月 2日 (木)

5 トータルシステムを考える

5−1 教育時間は人によってちがう

知識注入、学級一斉の方式は、教育の期間をすべての学習者に一定にするという考え方を生み出しています。しかし本来学習の期間は、人によって違う方が当然なのです。学習者の到達点は誰もが一定の所まで到達すべきなのです。今すぐこういう方式に具体的に切りかえることはむずかしいのですが、そういう方向への努力が必要なのです。

5−2 目的に応じた多種な学習方式

学習の方式はそれぞれ目的に応じて考えられなければなりません。自然や社会の現象を整理し、認識する能力は一人一人がしっかり身につける必要があります。これは個別の学習でしょう。共同でワークし思考するという態度は、グループの行動で身につけるのでしょう。このように、目的とする行動能力に応じて学習の方式を生み出さなければなりません。

5−3 学習者中心の方式

従来学級教育方式で、なんでも教師が中心になってやってきた習慣があるので、多様な学習の方式が、教師に考えられなくなっています。教師が自分で働くのでなく、学習者を働かせる方式を考えて、多様な学習方式を生み出す必要があります。学習者は個別に行動することも必要です。グループで共同作業や集団討議をすることも必要です。それは学級のわくにとらわれていては不可能なのです。

5−4 教師の役割の転換

教師はこれまで、集団をうまくとりまとめて行くという仕事を中心にしてやってきました。集団の一人一人がどう成長するかでなく、その場その場で、集団がまとまって行けばよかったのです。そういう態度では、集団の中の一人一人を育てたり、その一人一人の力で集団の力がのびるということにはならないのです。教師は自分が中心になって、学習の場を取りつくろうということをやめるべきです。

5−5 教師のなすべきこと

教師の仕事の中心は、自分たちが受け持つ、集団の学習者の一人一人にどういう活動をさせるのか、どういう教材をあたえるのか、どうグループをつくるのか、一人一人といつ相談してやるのか、といったことを設計し、その動きをみてまた次の手を考えるという影の仕事にもっと重点をおくべきです。それには教師たちが共同して仕事をすることが必要です。集団の前で、講義をするという一人ぽっちの教師のイメージを捨て去る必要があります。ーおわりー

4 学習環境をどうつくるか

4−1 行動の場としての環境

これまでは学習というとすぐ教科書を考えました。そしてそれを注入することを考えました。これからの学習環境は、学習者が、どういう行動をするかを考えることが中心になります。たとえば理科では自然が教材です。それを観察し、整理するのは学習者がやることです。そこではじめて自然をとらえるという行動ができるようになります。
学習の環境を構成するものは、こう考えるとさまざまあるのです。

4−2 教材の考え方をかえる

教科書を中心にした教材の考え方は、整理された結論を与えるという考え方です。視聴覚k等材も、大部分は、講義の形式をとり挿絵のある講義にすぎないものです。
そういう教材でなく、生の材料を学習者に提示することを考えなければなりません。社会を学ぶには、社会の現象の中にはいりこんで行くのがよいのです。そしてしれを自分の目で見て、自分で整理してある結論を出すのです。その行動・思考が学習なのです。それがむつかしいときには、シミュレーションを考えるのです。

4−3 シミュレータの利用

人間生活の現実をそのままもって来て行動の対象にすることは、学習者にとって必ずしもよい環境にならないことがあります。
そういうときは、シミュレータをつかって教育することが考えられなければなりません。
これまで行なわれていた、実験や実習などのワークの中には、シミュレーションの意味をもったものが多くあります。そういうものの意義をもう一度掘りおこすことが必要です。

4−4 教育機器の利用

いわゆる教育機器といわれるものも、使い方を考慮しないと、教師の講義をただ機械で行なうにすぎないものになります。それはすぐれた機械を殺して使うことになります。
学習者に生の教材を提示し、学習者にどういう反応をさせるのか、というように考えて使わなければなりません。学習者が受け身でなく能動的に教材にとりくむように提示する機器が必要です。こう考えると機器が問題なのではなく、教材が問題なのです。

4−5 多様な生活の場

教材・教具ばかりでなく、教室や、学校全体の施設を学習者が積極的に自分で使うことのできる形態に改める必要があります。
これまでの環境は、すべて、与える方式を土台にして施設設備がつくられています。これからは、学習者が使う方式にならなくてはなりません。個別の学習に使えること、グループの学習に使えること、大集団でもつかえること、さまざまな使い方をくふうして環境をつくるのです。

3 学習するシステムはどのように設計するのか

3−1 一人一人の行動の場をつくる

新しい学習システムを設計する基本的な考え方は、学習者一人一人の行動する場をつくるということです。学級を一括して教師と問答をするなどということでは、一人一人が責任をもって行動する場にはなりません。一人一人に対して行動(思考)する場をつくることです。集団討議でも一人一人が参加する場とならねばなりません。教師が中心になって学級を動かすという考え方をやめることです。

3ー2 目標行動を明確にする

教育の目標として知識・理解・態度・技能などと考えますが、それらもどういう対象に対して、どういう神経の働かせ方をすることなのかという考えで、一度検討し直すことが必要です。理解などというものも、学習者がどういう対象をどのように見て、どういう関係をとらえる行動かというように見直すのです。そうすると学習者という人間の、神経の働き方の問題が見えて来ます。目標となる行動を明確にすることです。

3−3 行動分析

つぎには、その目標となる行動を実際にやれる人をとらえてその行動する神経のあり方を分析する必要があります。またそういう行動のできない人と比べてみることも必要です。そうするとどういう神経の使い方が必要なのかということが明らかになります。行動分析で大切なのは、目に見える行動(表現)の背後にかくれている、頭の中の行動(測定)をとらえることです。ある表現がとられるには、必ずそうなる根拠があります。その神経の使い方をとらえることが大切です。

3−4 行動のプログラムをつくる

行動分析によって、神経の使い方がとらえられたら、その神経の使い方を学習者に実地に行なわせる場をつくるのです。つまり学習のプログラムをつくることで、その順序、その教材、その教材を提示する教具、その行動の結果を自覚し修正し、次に移って行く過程などを設計することがプログラムの設計です。必要に応じて、教育の機器を使うことが考えられます。学習プログラムによってどういう機器が必要になるかを考えることが大切です。

2 人間を育てる学習の基本は何か!

行動を育てる

2−1 与えることではない

人間を育てるということは、人間の働きをつくることです。働きとは行動することです。思考するのも行動です。
そういう行動を育てるには、対象に向かって自分が働きかけるという場で、神経を使わせることをさせなければなりません。話を聞かせてわからせるということではできないのです。
このことをはっきりと認識し解明しなければ人間を育てる教育は成立しません。

2−2 神経をつかわせる

われわれは長い間、あることをできるようにするには、そのやり方を教えればよい、それについての知識を与えればよいと考えてきました。これは間違いでした。できるようにするのは、そのことに対して神経の使い方を実際に訓練しなくてはならないのです。
つまり人間を育てるには、知らせることを考えるのではなく、学習者に神経を使わせることを考えなければならないのです。

2−3 技能や道徳的行動

以上のことは、技能の教育などでは最も具体的にわかります。しかし道徳的行動などについてもよく考えてみれば当てはまります。こうするべきだと教えたらそういう行動をする、などということにはならないことをわれわれは経験上十分に知っています。
道徳的行動も自動車の運転とおなじように、場に臨んで神経の働き方をつくらなければ形成されないのです。

2−4 考えるというのも行動

考えるということも行動の一種です。考える場合は行動の対象が言葉を媒介にしたイメージとして、頭の中にあるのです。
考えるという行動を形成するにも、手足を動かす行動と同じように、事柄(イメージ)に向かって神経を働かせることを訓練しなければならないのです。それには考えることをはっきりと提示し、あるいは自覚させ、それに対する神経の働かせ方をひとつひとつ積み上げていく必要があります。

2−5 能力とは行動である

人間には、さまざまな能力が必要だといわれます。社会的態度とか、国を愛する態度とか、創造的な能力とかいわれます。それらのどれ一つをとっても、それは具体的には行動としてあるのだということを忘れてはなりません。その行動自体が社会的であり、愛国的であり、創造的なのです。それはどんな神経の使い方なのかというように考えて、はじめて人間の育て方が明らかになって来るのです。

2007年8月 1日 (水)

1 学習システムの転換はなぜ必要か?

(以下本文)
1−1 目標の転換

 <知識から人間へ>
近代百年の教育の目標は、知識の注入ということでした。知識を与えれば、それが行動するときの力になると考えていたのです。
しかし人間は知識をもつことによって、行動できるようになる動物ではないことがわかって来ました。人間の行動自体を形成することが必要なのです。人間すなわち行動が問題です。
教育は知識を与えることだという目標観を改めなければならないのです。

1−2 知識注入からの脱出

知識注入という考え方の教育は、必然的に学級集団に対する一人の教師による教育という形態を生み出しました。そこでは知識を詰めこんだ教科書と教師の講義という形式が重要な役割をもっています。
あらゆる教育が、一人の教師—教科書—生徒集団というシステムの中で行なわれてきました。このシステムを転換することが、現代の堕落した教育を救う道です。

1−3 学級体制からの脱出

学級体制の中であらゆる学習を処理しようということが、大きな間違いをつくっています。われわれはそれに気がついていませんが一人一人の学習者の行動を形成してやることが、いつの間にか忘れられました。グループの共同作業、共同思考も本格的には行なえません。じゅっぱひとからげの知識注入では、行動の習慣・態度を育てることもできません。
総じて人間不在の教育を生み出しました。

1−4 行動による学習

人間は行動させることによって行動することを習得する動物です。
行動の仕方を知識として与えても行動できるようにはならないのです。たとえば自動車の運転を考えてください。いくら行動の仕方を言葉で教えてもだめです。自分で行動する以外手はありません。
これは考えるということについても同じなのです。自分の目の前にある行動の対象に向かって考えさせることによって、考えることができるようになります。

1−5 システムの転換とは

知識を与える学習の場をつくりかえて、学習者が自ら行動して、自らの力で知識としてまとめる行動をさせる学習の場にすることがシステムの転換なのです。
機器を使うことがシステム化であるなどという考え方は、改めなければなりません。従来の教育方式で機器を使えば、人間不在の教育がますますひどくなって堕落するばかりでしょう。

行動的人間を育てる学習システム

「行動的人間を育てる学習システム」(パネル原稿)について

 昔「教育の近代化展」という展示会がありました。実は今も続いていて今年は43回だそうですから、計算がまちがっていなければ、始まったのは1964年ということになります。東京オリンピックの年、昭和39年ですね。実は昭和40年(1965)11月24-25大手町の都立産業会館が最初でした。
 この展覧会は財団法人日本映画教育協会(現在の視聴覚教育協会)を中心に、16ミリ、8ミリなどの映写機やスライド、OHP、レスポンスアナライザーなど当時最新の視聴覚機器のメーカーと、映画やスライドの教材制作会社、販売会社の団体が文部省の後援を受けて開催していました。今でも続いているようですが、最近はパソコン、電子情報ボード、そしてインターネットを使った教材の大きな展示会がほかにいくつもあって、教育の近代化展は影をひそめています。
 実は矢口新と能力開発工学センタ―は、この「教育の近代化展」の初期、60年代〜70年代に、企画、展示、パンフレット「明日を拓く」の編集などに全面的に協力していました。「教育の近代化」のその目標の姿を具体的に提示するために、能力開発工学センタ―の開発したシステムと教材が展示され、教育実践が映画で上映されました。
 ここに紹介するのは、この「教育の近代化展」(1970年前後?調査中)で発表した展示パネルの原稿です。当時の矢口の考え方がとても分かりやすく示されています。しかしその内容は、当時の人々が教育の近代化というものに持っているイメージを根底からひっくり返えすものだと思います。果たしてこのパネルは人々にどのように受け取られたのでしょうか。そのあたりもいずれ調べてみたいと思います。(尚、パネルにはイラストもついていますので、これもいずれ掲載する予定です。)