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2007年8月 1日 (水)

大正・昭和前期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p459〜60
産業教育/大正・昭和前期(総論)

 この期にわが国は二度の世界大戦を経験した。もちろん異なった立場においてであるが、この二度の経験はわが国の社会と産業を大きくゆり動かした。しかしそれを通じて近代産業社会が徐々に成立していった。明治後期に成立した実業教育制度は、この過程で産業と教育の具体的な問題に直面して、変貌をとげた。

 第一次世界大戦により日本の工業は飛躍的に膨張した。Photo_5 試みに大正15年(1926)の工業生産額を明治42年(1909)と比較してみると、総額では約10倍に膨張している。全体としてはまだ軽工業が圧倒的に多いが、金属、機械工業の伸びがきわめて大きいこともこの膨張の意味を物語っている。この期にようやく重化学工業の素地をつくりつつあったのである。
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この期における実業教育の発展もまた急激であった。大正4年(1915)から5年毎の学校数をみると、表のように約15年間に実業学校は500校余りから1000校へと倍増している。専門学校も同様である。この膨張は近代産業の形成の結果とみることができるが、同時に産業教育はこの状勢と正面から対決することになる。

この期においては、まず教育の一般的状勢として上級学校進学者が激増した。政府は内閣に臨時教育会議を設けて、新しい状勢に対処する教育の方策を諮問した。この臨時教育会議の答申によってその後の教育の方向が決定され、高等教育の大拡張等も実施されるにいたるのである。産業教育に関しては、全部で8項目にわたる答申をしているが、その第一項に、「実業学校ニ関スル現在ノ制度ハ大体ニ於テ之ヲ改ムルヲ要セザルコト」と答申している。その他、個々補助の増額、徳育の振興、行政機関の整備、学校に関する規定の緩和、職員待遇の改善、実業界との連繋、実業補習教育の奨励などである。この答申は基本的には、明治後期に成立した実業教育制度に対しては変更の必要を認めないという考え方に立っている。むしろ明治以来の方針を貫くべしとしている。臨時教育会議の答申はいずれの分野でも、大体は従来の方針に基づく拡張案という性格をもっているが、産業教育の分野でも、それが明瞭にあらわれている。

 大正9年(1920)に実業学校令の改正が行なわれたが、それにも以上のような考え方は明瞭に出ている。この改正の主な点は、第一条の目的の規定に、徳性の涵養を付加したこと、設立の主体として商工会議所、農会、その他これに準ずる公共団体を認めたことなどである。またその後、実業諸学校の規程が改正されたが、新しく職業学校規程が制定されたこと、甲種・乙種の区別を廃したこと。その他教育内容方法の整備に関することとして、学科の改善、実習の改善などがめぼしい点である。これらの改正の中で科目に関して、女子に関する規程が新しく付加されたのは時代の動向を物語るものといえよう。なお大正13年(1924)には、実業学校卒業者を中学校卒業者と同等以上の学力を持つものと認めるという文部省告示が出されているが、これも新しい状勢の進展を示すものであろう。従来このようなことが明確でなかったことは、それ自体実業学校に対する当時の考え方を示すともいえよう。
 大正末期から昭和の初期へかけて、日本の社会は深刻な不況に直面した。とくに農村の不況が深刻であって、農業教育は大きな批判にぶつかった。農村に不況克服のための教育機関として、塾風教育を中心とした様々な教育機関が誕生した。それは農業学校教育に対する不信ともいえるのである。商業や工業の部面でもこの傾向は現れている。一般の実業学校で得られないような教育内容、たとえば写真・自動車・通信・タイプライターなどを教育する各種学校が漸増しつつあった。また、工場内に見習工の教育、中堅工の教育などという具体的な目的と内容をもった工場学校をもつ企業や官営工場が現れた。これも実業教育に対する近代産業の側からの批判とみることができる。
 この批判に答える意味もあって、昭和4年(1929)、5年に実業学校の諸規定が改正された。昭和6年に満州事変が発生したことから、それ以後の教育は準戦時体制、戦争体制へと急激に移行した。政府は昭和12年(1937)教育審議会を設けて、この体制への教育改革を断行していったが、全般的には従来の制度の整理統合という性格のものである。実業教育に関しては、中等学校令によって中学校と一本化されたことは注目すべきことである。戦時色の強くなるに従って産業教育の実質的な重要さが認識され、とくに工業学校は大きな膨張を遂げた。青年学校制度、技能者養成制度もその点から強化されたのである。(矢口 新)
<参考文献>「実業教育50年史」(S9),「産業教育70年史」(S31)

明治後期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p450〜2
産業教育/明治後期(総論)

 明治後期は、わが国の産業教育の制度が一応の形を整えた時期である。当時は実業教育制度といわれた。明治19年(1886)わが国の近代教育史上一時期を画する学校令が制定されたが、これは明治前期の考え方を結論づけたものともいえよう。それが土台になって、その上に実業教育制度が成立するのである。しかし明治19年の諸学校令の中では、産業教育はまだ実体のあるものとしては取り扱われていない。その点でもこの学校令は明治前期の理念の結論とみるべきである。
 産業教育に関する規程としては、中学校令の中に、高等中学校に法科・医科・工科・文科・理科・農業・商業などの分科を設けることができるという規程がある。また尋常中学校の学科及び其程度という部分に、農業初歩及実業という科目があがっており、また土地の情況によって文部大臣の認可を経て、商業・工業の科目をおくことができるようになっている。
 文教の府における教育制度の構想が上のようなものであったのに対して、社会の現実は産業のための教育について、より積極的なものを要求するに至っていた。とくに明治20年代になって漸く工業の発展のきざしが見えて来た。明治初年の政府の官営模範工場による指導、13年(1880)からの官営工場の民間への払い下げによる振興方策などが実を結び出した。生糸製糸、紡績などの軽工業は20年代のはじめから飛躍的な発展をみせはじめ、日清戦争後の産業革命突入への準備をしはじめていた。
 このような情勢が当時の有識者に産業教育への新しい展望を持たせるに至った。従来は漠然たる観念であったものが、産業の実体に触れて具体的な問題として認識されるに至った。彼らの最初に目に映じたものは、先進諸国との比較においてわが国の産業における労働力の一般的レベルが低いということであった。そこから当時の有識者は実業教育の振興を唱えるに至っているのである。実業教育が、日本の社会の要請としてこういう所から問題になってきたのは、産業教育というものの本質から考えても興味あることである。それらの所論は、たとえば手島精一や浜尾新の論文によく現れている。
 当時の有識者が特に関心を示したのは、急激に膨張しつつあった産業労働大衆のレベルアップの問題であったから、いわば大衆教育としての産業教育であった。当時、わが国の義務教育就学率はようやく50%程度という状態であったから、先進諸国の労働のレベルに比して著しく劣勢にあるという認識は当然であった。そこから職業と学業の一致とか、実業者に実際に資する教育とかという要請が出て来ているのである。このような状勢は、ただ工業のみにとどまるものではなかった。商業貿易の世界でも、外人商社に全く支配されていた商権の回復運動
の具体的な活動、農業における商品生産農業の進展というような実際的な問題と結びついて、産業に働く一般の人々の教育が要望されるに至ったのである。
 実業教育という概念は、こういう実体を地盤として成立して来た。これが実際に制度の上に実現したのは、明治20年代の後半になってからである。当時の文部大臣は井上毅であったが、彼は26年(1893)実業補習学校規程、翌27年徒弟学校規程、簡易農学校規程など一連の規程を制定した。そしてこのような方向を、一つの実業教育制度として、一本化するのに決定的な役割を果たす法律、実業教育費国庫補助法を制定した。これらの法令によって、それまで文部省以外の各省の管轄にあったもろもろの教育機関が、一つの教育制度の中に統一されることになった。
 以上を実業教育制度準備期とすれば、その実質が成立したのは、日清戦争後であるといえよう。戦後のあたらしい状態下で産業は急激に膨張し、産業革命は進展した。それを地盤にして、実業教育制度が具体的に成立した。それを形の上で示すものが明治32年(1899)の実業学校令である。急激に膨張する産業が、教育された産業人を要望するのに応えて制定したものということができる。つづいて明治36年(1903)には、専門学校令が制定され、実業専門学校を制度の中に明確にしたが、これも産業の要望にこたえたものということができよう。下の表は当時実業教育機関がどのように発展したのか一端を示している。(矢口 新)

<参考文献>「実業教育50年史」(S9),「産業教育70年史」(S31),「明治以降教育制度発達史」第3・4・5巻(S13,14),海後宗臣編「井上毅の教育政策」(S43)
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明治前期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p440
産業教育/明治前期(総論)

 この期は殖産興業というモットーが生まれたばかりである。文明開化というモットーもあったが、これは当時の一般的な教育目標であったとみることができる。当時はもちろん産業教育というような概念はなかった。つまり産業が国民生活の中にはっきり存在し、教育もまた生活の中に位置づき、その上で産業と教育とを関連的に考慮するという時代ではなかったのである。
 明治5年(1872)の「学制」は、維新後はじめて描かれた近代教育のビジョンであったが、産業教育に関してはほとんど何もなかった。農工商の学校は中学校の一種と定めていたのみである。翌6年(1873)の学制追加2編で、専門学校の名が出て教科を詳しく規程してあるが、学校の種類を認めたというにとどまっている。その点からいえば、まだ産業教育制度というものはなかったといってよい。その現実を明確にしたのは、明治12年(1879)の教育令である。それが当時の社会の現実をあらわした制度であったといえるかもしれない。それは実質的には初等教育に関するものであった。
  教育が基礎からつくられねばならなかったのと同様に、産業も国民生活の中に根おろしをする時期であった。それは欧米の先進諸国から近代的な産業を移植するという形で行なわれた。政府が先頭に立ってこれを行なったが、当面の責任部局は農業に関しては内務省勧業寮、後に農商務省、工業に関しては工部省、商業貿易に関しては大蔵省、その他各府県当局であった。これらの担当部局が、それぞれ独自の方式で先進諸国のものを導入する努力をしたのがこの期の実態である。故にこの実態を産業導入のための伝習教育と名づけてもよいであろう。
 産業導入のための伝習教育を大きく二つの類型に分けることができる。一つは傭外人教師による指導者養成教育という形をとったものと、もう一つは官営模範工場など経営体の場における実際の技術の伝習である。前者にはたとえば開拓使仮学校(後に札幌農学校)、勧業寮農本修学場(後に駒場農学校)、工学寮(工部大学校)、東京職工学校などがあった。大蔵省銀行課内銀行学局、商法講習所などもまた同様である。これらはだいたい後に高等の産業教育機関として成長して行った。この他に各府県でたとえば農事試験場ないし農事講習所という名目で農業の伝習教育を行なうものがいくつかあり、また商法講習所という名称のものがあった。これらの多くは明治10年代後半以降に農学校、商業学校などと名前を変えて、やがて産業教育制度をつくることになるのである。後者はたとえば富岡製糸場、横須賀こう舎の如く、産業の実態に触れて伝習を行なった。それはあくまで産業の中での伝習という形で近代産業の日本への移植の役割を果たしたのである。(矢口 新)
<参考文献>「実業教育五十年史」(文部省実業学校局編S30)「産業教育70年史」(文部省編S31)「明治以降教育制度発達史」第1・2巻(S13)

2007年7月31日 (火)

第二次大戦後の教育思想・教育研究について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p617〜8
教育思想・教育研究/第2次大戦後(総論)

 この期の教育思想・教育研究の特色は一言にしていえば、科学的・実証的な方向への転換ということができよう。あらゆる思想・研究の動向が、いわば戦前の上からのものという傾向であったのに対して、下からのものという色彩をもっている。第二次大戦直後は国民の大部分が思想的な虚脱の状態にあったといってよい。教育界もその点では同様であった。連合国進駐軍の指令は、戦前とくに戦時中の日本教育のよって立つ地盤ーそれは教育内容における天皇制といってもよいであろうーを崩壊させるものであったから、教育界は一時混乱の状態に陥ったのである。戦時中の「皇国の道」にかわるものが早急にさがし求められなければならなかった。
 しかし連合国による積極的な指導も行われて民主的な文化国家の創造というようなモットーが叫ばれ出した。皇国の道にかわったものは民主主義の哲学であったということができよう。こうして民主教育論が戦争直後の教育思想界を一色にぬりつぶすことになった。しかしこれはもちろん一つの理念というにとどまっていた。いかにそれを具体的に実現するかという目標として自覚されたのである。それがしかしその後現在にいたるまで、わが国の教育の回帰する地盤となっていることは重要なことである。それは極めて漠然としたものではあるが、戦後の教育思想の根底にある理念となったのである。様々な思想が最後にたどりつく所は、民主主義の方向だという意味で注目されなければならない。
 
 民主教育理念の戦後の教育思想における意味にはもう一つ重要なポイントがある。民主主義とは民族の数と同じだけあるといわれるように、それは本来、民族の生活の中からつくられたものであった。しかし戦後の日本においては、それが外からのものとして与えられた。戦前に多くの教育思想を外から輸入して来た日本の教育界としては、そういう態度で民主主義と接するのも当然であったし歴史の必然でもあった。戦後の多くの民主主義教育論は、広く世界史的視野の中で民主教育なるものをとらえ考察しているが、戦後の民主主義教育思想が、日本の新しい時代をつくる教育思想、哲学としては物足らぬとされる所以であろう。いわば余りにもインターナショナルな性格のものである。民主教育思想のこの性格は現在も依然としてあり、そこに戦後教育の反省が行われたりする際には批判される理由がある。この点は戦後の教育思想としてとくに注意しておくべきことである。
 しかし連合国が、否、実際にはアメリカであったが、日本の教育を指導する際に行った具体的な活動の中で、必ずしも観念的でない教育に対する考え方を植えつけていったことも注意してよいことである。アメリカは日本の教育界の各層の指導者を招集して、新しい教育についてのいわゆるワークショップを行なった。これらのワークショプを通じて多くの指導者が会得したものは、観念的なものよりむしろ実際的な考え方、行動の仕方であった。集合教育の場で行われる作業やディスカッションを通じて、極めて実証的な物の考え方を身につけていった。これがその後の日本における教育研究のあり方をつくりあげるのに大きい力となったということができる。このことは日本の教育思想、教育研究の歴史の中では重要な意義をもつと考えられる。
 
 さらにもう一つ、科学的・実証的教育研究の思想を推進したものに、教育の現場の実践がある。教育の現場の実践でその中心になったのは社会科であるが、この社会科の具体的な教育実践を通じて、教育の内容・方法についての民主的思想が訓練された。教育内容の編成、その方法の実証的な性格などに目を開かれることによって、近代教育のリアリズムの精神を教えられたのである。教科書教育の排除、教師中心から生徒中心へ、ラーニング・バイ・ドゥーイング(learning by doing)、さらには見学、調査、ディスカッション、デモンストレーション活動などにそのことが示され、その中には滑稽な行き過ぎもあったけれど、そのこと自体よりも近代教育の根底にある実証的精神を教えられたのである。
 これらの教育方法論の根底にあるのは、広くいって一口に経験主義の教育理論といえるかも知れない。そういう思想が輸入されて、当時の教育を支配したということもできるけれども、それ以上に大切な事は、それを通じて実証的な精神、近代教育のリアリズムにふれた点である。つまり単なる観念的な思想として受け入れたのでなく、教育についての考え方が揺り動かされているのである。このような思想的背景のもとに、教育の実証的・科学的な研究が次第に普及したのは、戦後の教育研究の動向の一大特色であるということができよう。
 
 戦後は、教育研究のあらゆる分野で教育調査が行われるようになった。行政府の文部省には調査局がおかれた。戦前には調査部があったが、その仕事は諸外国の教育制度の翻訳が中心であって、戦後のものとは著しく性格を異にするものである。調査局の仕事は、行政・財政の調査が主であって、そこにはわれわれの国の実態を明らかにしようという考え方がある。国立の教育研究所も昭和25年(1950)以降、国内の教育実態の調査を行なう期間として出発している。そこでは、小中高等学校の教育課程や授業の実態、生徒の生活の実態、さらに勤労青少年の生活や教育の実態などさまざまな教育の実態調査を行いつつある。このような研究所は、その後次第に全国各都道府県に普及してほとんどすべての都道府県および大都市は教育研究所を所有するに至った。そこにおける研究の主なるものはいずれも実態調査といってよい。
 教育調査、教育の実証的研究を普及する力となっているのは、大学の教育学部、学芸学部における教育内容に教育社会学・教育心理学などが導入されたことも大きいのである。このことを機縁として、教育研究の中に社会学的方法としての調査、心理学的な方法としての実験的方法が導入されて来た。これら大学の教育学部等における教育調査も最近優れたものがあらわれるに至っている。またこのような実証的方法は、実験的方法と密接な関係をもたざるをえないので、いわゆるアクション・リサーチ(action research)の方法も採用されるに至る。
 このような方法論あるいは考え方は、戦後の教育研究のあらゆる分野において見られるのである。例えば歴史研究においても、最近の日本近代教育史研究のいくつかの業績が、あくまで実証的にしかも実際に行われた教育の事実の歴史に迫ろうとしたものから出ていることにあらわれている。戦前の教育史がとかく制度の歴史であったのに比して、そこには大きな前進がみられるのである。
 さらに比較教育の研究分野においてもこの傾向がみられる。単なる制度の比較でなく、その根底にある実体的なものをとらえようとする研究はたとえば牛島義友の「西欧と日本の人間形成」の比較研究を生み出している。最近はこの方向でアジアへも目がむけられている。
 実証的な研究はイデオロギーの分野に及んでいる。はじめイデオロギーとしてのみ受け入れられたマルキシズム教育理論が、最近はソヴィエトの科学的研究実践の実体へ目を向けるように変化しつつある。(矢口 新)
<参考文献>柳久雄・川合章編「現代日本の教育思想」戦後編S37,船山謙次「戦後日本教育論争史」正続S30-33,「近代教育史」教育学全集3(S43) , 細谷俊夫・仲新編「教育学研究入門」s43,

教育調査について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p619
教育思想・教育研究/教育調査
 
 戦前は教育調査という言葉はほとんど使われなかった。学校調査という概念が使われていた。それは学校活動を実証的に分析するために資料を収集し、それに基づいて評論をする一連の活動をさしていた。戦後「教育調査」という言葉が使われるようになってもその基本的な考え方には変わりはない。ただ学校活動と限らずさまざまな教育に関する問題に対してその実態を明らかにするデーターを収集し、これを分析して評価することを調査とよぶようになっている。いわば実証的な研究の対象が拡がったものと見ることができる。
 戦後最も早く行われた調査は、「日本人の読み書き能力調査」で、現在の国立教育研究所の前身の教育研修所が行なった。これは文盲調査といわれるもので、サンプルをとって日本人全体の文盲率を出そうとしたものである。
 これとは多少異なるが、戦後最も大きい関心をもたれているのが学力調査である。その最初は日本教育学会が昭和26年に行なった義務教育終了期における基礎学力の調査であった。昭和27年(1952)からは国立教育研究所で全国にわたる学力調査が行なわれ、その後文部省にひきつがれて続けられている。この調査も日本人全体の学力水準を出そうという点では、一種の文盲調査と似たところがある。しかし一方、個々のケース、例えば学級や学校、場合によっては個人をとってその学力の診断をしようという考えもないわけではない。前のような考え方は統計学・推計学の利用を重くみるが、後者の場合にはむしろ分析のプロセスに重きを置き、個々のケースの類型化やその評価に力が入れられる。教育調査の基本からいえば後者の方が本筋で前者はその過程において存在するものといえよう。
 戦後、学校教育、社会教育の分野を問わず、またその教育活動の種類を問わず非常に多くの調査が行われているが、そのデーターの収集から解釈、評価に至る一連のプロセスが、まだ真に科学的な方法論として成立していないのが現状である。(矢口 新)

教育の実験的研究について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p619
教育思想・教育研究/教育の実験的研究 

教育の実験をするということは厳密な意味では成立しないともいえる。医学における人体実験と同じように考えれば、人間に実験するにはすでにそれ以前の万全の研究を土台にしなければならない。一定の仮説に基づいた周到な計画的教育であって、それが同時に研究としての意味をもつというように考えれば、問題はその仮説がいかなるものかということにかかって来る。仮説が現実的な地盤をもっておれば、それは現実の教育の改善ということである。同時にそれが研究として行われる。
 このような意味での教育の実験的研究は戦前にもないわけではなかった。新しい教育実践というのは多かれ少なかれ教育の実験的研究としての意味をもつといい得る。戦前にさまざまな教育思想に基づいて実践が行われたが、それらはいずれもそのような意味のものとして考えてよい。あるいは体験教育とか、あるいは合科教育などという実践が、附属小学校などで行われた。
 戦後においてこのような方向のものとしては、様々な地域でおこなわれた○○プランといわれる教育実践がある。これらはある意味では現実を一歩出た仮説をもって教育を行いその結果を観察し、反省することによって、次第により精細な実践の計画をつくりあげて行くという過程で行われている。戦後社会科の教育を中心にした川口プランとか、本郷プランとか、福沢プランとかいわれているものは、そのような実験研究の産物であるといってもよい。
 教育の実験的研究は比較的長期にわたって行われる必要がある。それは実践を一歩一歩積み上げる必要があるからである。富山の北加積小学校は15年以上の長い積みあげでプログラム学習を実施し、学年のわくをはずして教育を実施できるような実体をつくりあげている。こういう研究のためには周囲の理解と援助が不可欠である。(矢口 新)

日本近代教育史事典から

 矢口新の大学時代の専攻は教育史で、卒論も明治維新における教育制度についてであった。矢口がことあるごとに言っていた「明治100年の教育の打破」という言葉を、私はただ観念的に、文字中心の知識注入型教育の批判としか捉えていなかったが、矢口は教育史的な裏付けに基づく、もっと深い意味をこめていたはずだと今にして思う。矢口の教育史に関する論考はほとんどないが、昭和46年(1971)に刊行された日本近代教育史事典(平凡社)では編集委員をつとめるとともに、産業教育などいくつかの項を書いている。どれも事典と言う制約の中にあって、矢口の教育観がうかがわれる興味深い論考になっている。担当項目は以下の通り。それぞれ項を改めて全文掲載する。
   
37産業教育 
<明治前期>総論  
<明治後期>総論,実業教育費国庫補助法,実業学校令,実業学務局,実業学校の甲種・乙種,実業専門学校,
<大正・昭和前期>総論,職業学校規程,実業教育振興委員会,商業学校の工業学校への転換, 
(*戦後の担当は元木健)

53教育思想・教育研究
<第二次大戦後>総論,教育調査,教育の実験的研究,