最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 関心のもち方を整理すること | トップページ

2008年2月25日 (月)

「新教育と映画」(1950)

 これは 昭和25年(1950)、波多野完治が監修した「聴視覚教育新書1 映畫」に69ページにわたって掲載した論文である。戦後、中央教育研究所で視覚教育の研究と教材開発を行った矢口は、昭和25年国立教育研究所へ移ってからも教育調査や地域教育計画などに取り組む傍ら、映画教材の開発と活用に取り組んでいた。この論文にはその根底となる矢口の教育観、教材観が明確に示されている。今この中の「映画」という言葉を、コンピュータやデジタルコンテンツなど現代のさまざまな「メディア」に置き換えて読んでみると、今日の教育の課題が具体的に見えてくる思いがする。以下は第一章「視覚教育の社会的背景」の部分である。
 尚、波多野が「聴視覚」としたのはアメリカの“Audio-Visual"の直訳らしい。当時は映画教育という用語があったが、矢口は映画や幻灯(スライド)などの映像、つまり視覚メディアを教育に使うことを視覚教育と呼んでいたようである。
******************************************
(本文)
 「教育に映画を使おうというのは、単に教育の能率をよくしようとか、児童の興味を引くためだとかいうことではない。映画が今日以降の文化の発展に欠くべからざる因子であるという現実が、教育に映画を入れることを要求するのである。
 我々が今から作り上げようとしている生活の形がどういうものであるにせよ、それは現実から、現実を見て組み立てられねばならぬであろう。上からある形が与えられ、その方向へ動くというものではない。現実を見て現実を考えるということは難しいことである。現実は見えるようで見えないのである。特に流動する現実をつかむことはもっとも困難なことに属する。この役割を果たすのが実は映画である。これは観念的に固定した見方を却けることができ、あらゆるメカニズムを使って流動する現実をとらえるのである。映画は今後の文化建設のエネルギーとしての役割を果たすであろう。これが人間形成において映画を使う根本的理由である。
 映画はまだまだ未知のものを多くもっているものであって今後の課題である。しかしそれが教育において使われることによって、おそらく映画自身も新たな発展をとぐるであろう。それは現実のごとくほとんど娯楽としてのみ使われている状態から、新しい文化の道具としての意味をもつのである。このことは映画の新しい発見であるが、それのみでなく、実に人間自身の新しい発見をもたらすのであろう。そしてそれこそ、映画によって人間を育てようすることの根源の理由である筈である。
 我々は明治以降80年間の間に近代教育の一応の体制を整えた。そして80年間に我々の先輩が予想した近代的教育形態を実現したのである。我々の現在の教育の形は実は80年前の形なのである。
 この80年の間に社会はさまざまな進歩と変化を遂げたが、教育において、とくに学校生活の形において、80年間に幾何の進歩があったというのであろうか。我々は80年前の伝統の中に入り込んでいて、その惰性の中にあってなんら怪しまないでいる。しかし、一度眼を学校の外に転じて学校に帰ってくると、学校は社会の進歩とはあまりに遅れた姿で横たわっているのである。われわれは教育改革について、もっと真剣に、もっと現実的にならなければならないのではないか。視覚教育が主張されるのは、こうした教育の現実的な改造を実現しようとしているからにほかならない。
*******************************
★「新教育と映画」の目次構成は以下の通りである。
1.視覚教育の社会的背景  
2.カリキュラムの視覚化  
3.映画の教育的特性  
4.学習における映画  
5.映画鑑賞の学習  
6.映画教材の管理  
7.学習映画の製作  
8.結語

« 関心のもち方を整理すること | トップページ

視聴覚教育・メディア教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/162099/40259077

この記事へのトラックバック一覧です: 「新教育と映画」(1950):

« 関心のもち方を整理すること | トップページ