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2007年8月 1日 (水)

明治前期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p440
産業教育/明治前期(総論)

 この期は殖産興業というモットーが生まれたばかりである。文明開化というモットーもあったが、これは当時の一般的な教育目標であったとみることができる。当時はもちろん産業教育というような概念はなかった。つまり産業が国民生活の中にはっきり存在し、教育もまた生活の中に位置づき、その上で産業と教育とを関連的に考慮するという時代ではなかったのである。
 明治5年(1872)の「学制」は、維新後はじめて描かれた近代教育のビジョンであったが、産業教育に関してはほとんど何もなかった。農工商の学校は中学校の一種と定めていたのみである。翌6年(1873)の学制追加2編で、専門学校の名が出て教科を詳しく規程してあるが、学校の種類を認めたというにとどまっている。その点からいえば、まだ産業教育制度というものはなかったといってよい。その現実を明確にしたのは、明治12年(1879)の教育令である。それが当時の社会の現実をあらわした制度であったといえるかもしれない。それは実質的には初等教育に関するものであった。
  教育が基礎からつくられねばならなかったのと同様に、産業も国民生活の中に根おろしをする時期であった。それは欧米の先進諸国から近代的な産業を移植するという形で行なわれた。政府が先頭に立ってこれを行なったが、当面の責任部局は農業に関しては内務省勧業寮、後に農商務省、工業に関しては工部省、商業貿易に関しては大蔵省、その他各府県当局であった。これらの担当部局が、それぞれ独自の方式で先進諸国のものを導入する努力をしたのがこの期の実態である。故にこの実態を産業導入のための伝習教育と名づけてもよいであろう。
 産業導入のための伝習教育を大きく二つの類型に分けることができる。一つは傭外人教師による指導者養成教育という形をとったものと、もう一つは官営模範工場など経営体の場における実際の技術の伝習である。前者にはたとえば開拓使仮学校(後に札幌農学校)、勧業寮農本修学場(後に駒場農学校)、工学寮(工部大学校)、東京職工学校などがあった。大蔵省銀行課内銀行学局、商法講習所などもまた同様である。これらはだいたい後に高等の産業教育機関として成長して行った。この他に各府県でたとえば農事試験場ないし農事講習所という名目で農業の伝習教育を行なうものがいくつかあり、また商法講習所という名称のものがあった。これらの多くは明治10年代後半以降に農学校、商業学校などと名前を変えて、やがて産業教育制度をつくることになるのである。後者はたとえば富岡製糸場、横須賀こう舎の如く、産業の実態に触れて伝習を行なった。それはあくまで産業の中での伝習という形で近代産業の日本への移植の役割を果たしたのである。(矢口 新)
<参考文献>「実業教育五十年史」(文部省実業学校局編S30)「産業教育70年史」(文部省編S31)「明治以降教育制度発達史」第1・2巻(S13)

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