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2007年5月10日 (木)

はじめに

 矢口新(はじめ)の研究はこれまで学会に発表されていないためあまり知られていないが、今日の教育問題、教育改革を考えるさまざまな示唆を与えてくれる。あらためて注目したいと思う。
 矢口新は、1913年生まれ。東京帝国大学文学部で教育学を学び、卒業後は岡部教育研究所(貴族院議員岡部長景が創設)で恩師海後宗臣の指導のもと教育調査に従事する。その後、軍隊に5年。戦後は岡部教育研究所の後身の中央教育研究所で、社会科カリキュラム川口プランの開発、視聴覚教育にも率先して取り組み社会科教材映画体系の作成を指導した。  
 1950年国立教育研究所へ移り、学力調査、青年教育調査などの傍ら、富山県や茨城県水海道市などで地域の現実に基づくカリキュラム開発を行う。同時に当時日本に入ってきたプログラム学習方式を研究し、脳科学にもとづく独自の行動形成理論を追求。それを教育現場に普及するため、1968年財団法人能力開発工学センターを設立した。
 以後、企業内教育を中心にシミュレータを使い協同で学ぶ実践的学習システムを次々に開発し実践するとともに、学校教育においても、学習用シミュレータを使った理科電気の学習やコンピュータ学習の探究プログラムを開発し、学習実験を各地で行っている。
 矢口はその生涯を通して、学習は生活の現実の課題を解決するプロセスで成立する、そのために学習者が主体的に課題に取り組む学習の場をつくることが教育の仕事であると訴え、実践してきた。矢口のさまざまな著作からそれを具体的に紹介していきたい。(S)
★関連ブログ/教育フロンティア矢口新

 目 次
★それぞれのタイトルには右欄の(カテゴリー)からお入りください。

1.まえがき・目次
2.行動的人間を育てる学習システム (1970?)
○行動的人間を育てる学習システム
○1)学習システムの転換はなぜ必要か
○2)人間を育てる学習の基本は何か
○3)学習するシステムはどのように設計するか
○4)学習環境をどうつくるか
○5)トータルシステムを考える

3.思考の訓練について (1963)
○1)プログラム学習における思考の訓練について
○2)人の話を聞くこと・考えること
○3)本をよむこと・考えること
○4)物をみること・考えること
○5)考えさせるということ
○6)関心の持ち方を整理すること
 
4.日本近代教育史事典から (1971)
○近代教育史事典から
○明治前期の産業教育
○明治後期の産業教育
○大正・昭和前期の産業教育
○第二次大戦後の教育思想・教育研究について
○教育調査について
○教育の実験的研究について

5.視聴覚教育・メディア教育
○新教育と映画(1950)
 

2007年7月31日 (火)

日本近代教育史事典から

 矢口新の大学時代の専攻は教育史で、卒論も明治維新における教育制度についてであった。矢口がことあるごとに言っていた「明治100年の教育の打破」という言葉を、私はただ観念的に、文字中心の知識注入型教育の批判としか捉えていなかったが、矢口は教育史的な裏付けに基づく、もっと深い意味をこめていたはずだと今にして思う。矢口の教育史に関する論考はほとんどないが、昭和46年(1971)に刊行された日本近代教育史事典(平凡社)では編集委員をつとめるとともに、産業教育などいくつかの項を書いている。どれも事典と言う制約の中にあって、矢口の教育観がうかがわれる興味深い論考になっている。担当項目は以下の通り。それぞれ項を改めて全文掲載する。
   
37産業教育 
<明治前期>総論  
<明治後期>総論,実業教育費国庫補助法,実業学校令,実業学務局,実業学校の甲種・乙種,実業専門学校,
<大正・昭和前期>総論,職業学校規程,実業教育振興委員会,商業学校の工業学校への転換, 
(*戦後の担当は元木健)

53教育思想・教育研究
<第二次大戦後>総論,教育調査,教育の実験的研究,
                      

教育の実験的研究について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p619
教育思想・教育研究/教育の実験的研究 

教育の実験をするということは厳密な意味では成立しないともいえる。医学における人体実験と同じように考えれば、人間に実験するにはすでにそれ以前の万全の研究を土台にしなければならない。一定の仮説に基づいた周到な計画的教育であって、それが同時に研究としての意味をもつというように考えれば、問題はその仮説がいかなるものかということにかかって来る。仮説が現実的な地盤をもっておれば、それは現実の教育の改善ということである。同時にそれが研究として行われる。
 このような意味での教育の実験的研究は戦前にもないわけではなかった。新しい教育実践というのは多かれ少なかれ教育の実験的研究としての意味をもつといい得る。戦前にさまざまな教育思想に基づいて実践が行われたが、それらはいずれもそのような意味のものとして考えてよい。あるいは体験教育とか、あるいは合科教育などという実践が、附属小学校などで行われた。
 戦後においてこのような方向のものとしては、様々な地域でおこなわれた○○プランといわれる教育実践がある。これらはある意味では現実を一歩出た仮説をもって教育を行いその結果を観察し、反省することによって、次第により精細な実践の計画をつくりあげて行くという過程で行われている。戦後社会科の教育を中心にした川口プランとか、本郷プランとか、福沢プランとかいわれているものは、そのような実験研究の産物であるといってもよい。
 教育の実験的研究は比較的長期にわたって行われる必要がある。それは実践を一歩一歩積み上げる必要があるからである。富山の北加積小学校は15年以上の長い積みあげでプログラム学習を実施し、学年のわくをはずして教育を実施できるような実体をつくりあげている。こういう研究のためには周囲の理解と援助が不可欠である。(矢口 新)

教育調査について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p619
教育思想・教育研究/教育調査
 
 戦前は教育調査という言葉はほとんど使われなかった。学校調査という概念が使われていた。それは学校活動を実証的に分析するために資料を収集し、それに基づいて評論をする一連の活動をさしていた。戦後「教育調査」という言葉が使われるようになってもその基本的な考え方には変わりはない。ただ学校活動と限らずさまざまな教育に関する問題に対してその実態を明らかにするデーターを収集し、これを分析して評価することを調査とよぶようになっている。いわば実証的な研究の対象が拡がったものと見ることができる。
 戦後最も早く行われた調査は、「日本人の読み書き能力調査」で、現在の国立教育研究所の前身の教育研修所が行なった。これは文盲調査といわれるもので、サンプルをとって日本人全体の文盲率を出そうとしたものである。
 これとは多少異なるが、戦後最も大きい関心をもたれているのが学力調査である。その最初は日本教育学会が昭和26年に行なった義務教育終了期における基礎学力の調査であった。昭和27年(1952)からは国立教育研究所で全国にわたる学力調査が行なわれ、その後文部省にひきつがれて続けられている。この調査も日本人全体の学力水準を出そうという点では、一種の文盲調査と似たところがある。しかし一方、個々のケース、例えば学級や学校、場合によっては個人をとってその学力の診断をしようという考えもないわけではない。前のような考え方は統計学・推計学の利用を重くみるが、後者の場合にはむしろ分析のプロセスに重きを置き、個々のケースの類型化やその評価に力が入れられる。教育調査の基本からいえば後者の方が本筋で前者はその過程において存在するものといえよう。
 戦後、学校教育、社会教育の分野を問わず、またその教育活動の種類を問わず非常に多くの調査が行われているが、そのデーターの収集から解釈、評価に至る一連のプロセスが、まだ真に科学的な方法論として成立していないのが現状である。(矢口 新)

第二次大戦後の教育思想・教育研究について

日本近代教育史事典(平凡社1971)p617〜8
教育思想・教育研究/第2次大戦後(総論)

 この期の教育思想・教育研究の特色は一言にしていえば、科学的・実証的な方向への転換ということができよう。あらゆる思想・研究の動向が、いわば戦前の上からのものという傾向であったのに対して、下からのものという色彩をもっている。第二次大戦直後は国民の大部分が思想的な虚脱の状態にあったといってよい。教育界もその点では同様であった。連合国進駐軍の指令は、戦前とくに戦時中の日本教育のよって立つ地盤ーそれは教育内容における天皇制といってもよいであろうーを崩壊させるものであったから、教育界は一時混乱の状態に陥ったのである。戦時中の「皇国の道」にかわるものが早急にさがし求められなければならなかった。
 しかし連合国による積極的な指導も行われて民主的な文化国家の創造というようなモットーが叫ばれ出した。皇国の道にかわったものは民主主義の哲学であったということができよう。こうして民主教育論が戦争直後の教育思想界を一色にぬりつぶすことになった。しかしこれはもちろん一つの理念というにとどまっていた。いかにそれを具体的に実現するかという目標として自覚されたのである。それがしかしその後現在にいたるまで、わが国の教育の回帰する地盤となっていることは重要なことである。それは極めて漠然としたものではあるが、戦後の教育思想の根底にある理念となったのである。様々な思想が最後にたどりつく所は、民主主義の方向だという意味で注目されなければならない。
 
 民主教育理念の戦後の教育思想における意味にはもう一つ重要なポイントがある。民主主義とは民族の数と同じだけあるといわれるように、それは本来、民族の生活の中からつくられたものであった。しかし戦後の日本においては、それが外からのものとして与えられた。戦前に多くの教育思想を外から輸入して来た日本の教育界としては、そういう態度で民主主義と接するのも当然であったし歴史の必然でもあった。戦後の多くの民主主義教育論は、広く世界史的視野の中で民主教育なるものをとらえ考察しているが、戦後の民主主義教育思想が、日本の新しい時代をつくる教育思想、哲学としては物足らぬとされる所以であろう。いわば余りにもインターナショナルな性格のものである。民主教育思想のこの性格は現在も依然としてあり、そこに戦後教育の反省が行われたりする際には批判される理由がある。この点は戦後の教育思想としてとくに注意しておくべきことである。
 しかし連合国が、否、実際にはアメリカであったが、日本の教育を指導する際に行った具体的な活動の中で、必ずしも観念的でない教育に対する考え方を植えつけていったことも注意してよいことである。アメリカは日本の教育界の各層の指導者を招集して、新しい教育についてのいわゆるワークショップを行なった。これらのワークショプを通じて多くの指導者が会得したものは、観念的なものよりむしろ実際的な考え方、行動の仕方であった。集合教育の場で行われる作業やディスカッションを通じて、極めて実証的な物の考え方を身につけていった。これがその後の日本における教育研究のあり方をつくりあげるのに大きい力となったということができる。このことは日本の教育思想、教育研究の歴史の中では重要な意義をもつと考えられる。
 
 さらにもう一つ、科学的・実証的教育研究の思想を推進したものに、教育の現場の実践がある。教育の現場の実践でその中心になったのは社会科であるが、この社会科の具体的な教育実践を通じて、教育の内容・方法についての民主的思想が訓練された。教育内容の編成、その方法の実証的な性格などに目を開かれることによって、近代教育のリアリズムの精神を教えられたのである。教科書教育の排除、教師中心から生徒中心へ、ラーニング・バイ・ドゥーイング(learning by doing)、さらには見学、調査、ディスカッション、デモンストレーション活動などにそのことが示され、その中には滑稽な行き過ぎもあったけれど、そのこと自体よりも近代教育の根底にある実証的精神を教えられたのである。
 これらの教育方法論の根底にあるのは、広くいって一口に経験主義の教育理論といえるかも知れない。そういう思想が輸入されて、当時の教育を支配したということもできるけれども、それ以上に大切な事は、それを通じて実証的な精神、近代教育のリアリズムにふれた点である。つまり単なる観念的な思想として受け入れたのでなく、教育についての考え方が揺り動かされているのである。このような思想的背景のもとに、教育の実証的・科学的な研究が次第に普及したのは、戦後の教育研究の動向の一大特色であるということができよう。
 
 戦後は、教育研究のあらゆる分野で教育調査が行われるようになった。行政府の文部省には調査局がおかれた。戦前には調査部があったが、その仕事は諸外国の教育制度の翻訳が中心であって、戦後のものとは著しく性格を異にするものである。調査局の仕事は、行政・財政の調査が主であって、そこにはわれわれの国の実態を明らかにしようという考え方がある。国立の教育研究所も昭和25年(1950)以降、国内の教育実態の調査を行なう期間として出発している。そこでは、小中高等学校の教育課程や授業の実態、生徒の生活の実態、さらに勤労青少年の生活や教育の実態などさまざまな教育の実態調査を行いつつある。このような研究所は、その後次第に全国各都道府県に普及してほとんどすべての都道府県および大都市は教育研究所を所有するに至った。そこにおける研究の主なるものはいずれも実態調査といってよい。
 教育調査、教育の実証的研究を普及する力となっているのは、大学の教育学部、学芸学部における教育内容に教育社会学・教育心理学などが導入されたことも大きいのである。このことを機縁として、教育研究の中に社会学的方法としての調査、心理学的な方法としての実験的方法が導入されて来た。これら大学の教育学部等における教育調査も最近優れたものがあらわれるに至っている。またこのような実証的方法は、実験的方法と密接な関係をもたざるをえないので、いわゆるアクション・リサーチ(action research)の方法も採用されるに至る。
 このような方法論あるいは考え方は、戦後の教育研究のあらゆる分野において見られるのである。例えば歴史研究においても、最近の日本近代教育史研究のいくつかの業績が、あくまで実証的にしかも実際に行われた教育の事実の歴史に迫ろうとしたものから出ていることにあらわれている。戦前の教育史がとかく制度の歴史であったのに比して、そこには大きな前進がみられるのである。
 さらに比較教育の研究分野においてもこの傾向がみられる。単なる制度の比較でなく、その根底にある実体的なものをとらえようとする研究はたとえば牛島義友の「西欧と日本の人間形成」の比較研究を生み出している。最近はこの方向でアジアへも目がむけられている。
 実証的な研究はイデオロギーの分野に及んでいる。はじめイデオロギーとしてのみ受け入れられたマルキシズム教育理論が、最近はソヴィエトの科学的研究実践の実体へ目を向けるように変化しつつある。(矢口 新)
<参考文献>柳久雄・川合章編「現代日本の教育思想」戦後編S37,船山謙次「戦後日本教育論争史」正続S30-33,「近代教育史」教育学全集3(S43) , 細谷俊夫・仲新編「教育学研究入門」s43,

2007年8月 1日 (水)

明治前期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p440
産業教育/明治前期(総論)

 この期は殖産興業というモットーが生まれたばかりである。文明開化というモットーもあったが、これは当時の一般的な教育目標であったとみることができる。当時はもちろん産業教育というような概念はなかった。つまり産業が国民生活の中にはっきり存在し、教育もまた生活の中に位置づき、その上で産業と教育とを関連的に考慮するという時代ではなかったのである。
 明治5年(1872)の「学制」は、維新後はじめて描かれた近代教育のビジョンであったが、産業教育に関してはほとんど何もなかった。農工商の学校は中学校の一種と定めていたのみである。翌6年(1873)の学制追加2編で、専門学校の名が出て教科を詳しく規程してあるが、学校の種類を認めたというにとどまっている。その点からいえば、まだ産業教育制度というものはなかったといってよい。その現実を明確にしたのは、明治12年(1879)の教育令である。それが当時の社会の現実をあらわした制度であったといえるかもしれない。それは実質的には初等教育に関するものであった。
  教育が基礎からつくられねばならなかったのと同様に、産業も国民生活の中に根おろしをする時期であった。それは欧米の先進諸国から近代的な産業を移植するという形で行なわれた。政府が先頭に立ってこれを行なったが、当面の責任部局は農業に関しては内務省勧業寮、後に農商務省、工業に関しては工部省、商業貿易に関しては大蔵省、その他各府県当局であった。これらの担当部局が、それぞれ独自の方式で先進諸国のものを導入する努力をしたのがこの期の実態である。故にこの実態を産業導入のための伝習教育と名づけてもよいであろう。
 産業導入のための伝習教育を大きく二つの類型に分けることができる。一つは傭外人教師による指導者養成教育という形をとったものと、もう一つは官営模範工場など経営体の場における実際の技術の伝習である。前者にはたとえば開拓使仮学校(後に札幌農学校)、勧業寮農本修学場(後に駒場農学校)、工学寮(工部大学校)、東京職工学校などがあった。大蔵省銀行課内銀行学局、商法講習所などもまた同様である。これらはだいたい後に高等の産業教育機関として成長して行った。この他に各府県でたとえば農事試験場ないし農事講習所という名目で農業の伝習教育を行なうものがいくつかあり、また商法講習所という名称のものがあった。これらの多くは明治10年代後半以降に農学校、商業学校などと名前を変えて、やがて産業教育制度をつくることになるのである。後者はたとえば富岡製糸場、横須賀こう舎の如く、産業の実態に触れて伝習を行なった。それはあくまで産業の中での伝習という形で近代産業の日本への移植の役割を果たしたのである。(矢口 新)
<参考文献>「実業教育五十年史」(文部省実業学校局編S30)「産業教育70年史」(文部省編S31)「明治以降教育制度発達史」第1・2巻(S13)

明治後期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p450〜2
産業教育/明治後期(総論)

 明治後期は、わが国の産業教育の制度が一応の形を整えた時期である。当時は実業教育制度といわれた。明治19年(1886)わが国の近代教育史上一時期を画する学校令が制定されたが、これは明治前期の考え方を結論づけたものともいえよう。それが土台になって、その上に実業教育制度が成立するのである。しかし明治19年の諸学校令の中では、産業教育はまだ実体のあるものとしては取り扱われていない。その点でもこの学校令は明治前期の理念の結論とみるべきである。
 産業教育に関する規程としては、中学校令の中に、高等中学校に法科・医科・工科・文科・理科・農業・商業などの分科を設けることができるという規程がある。また尋常中学校の学科及び其程度という部分に、農業初歩及実業という科目があがっており、また土地の情況によって文部大臣の認可を経て、商業・工業の科目をおくことができるようになっている。
 文教の府における教育制度の構想が上のようなものであったのに対して、社会の現実は産業のための教育について、より積極的なものを要求するに至っていた。とくに明治20年代になって漸く工業の発展のきざしが見えて来た。明治初年の政府の官営模範工場による指導、13年(1880)からの官営工場の民間への払い下げによる振興方策などが実を結び出した。生糸製糸、紡績などの軽工業は20年代のはじめから飛躍的な発展をみせはじめ、日清戦争後の産業革命突入への準備をしはじめていた。
 このような情勢が当時の有識者に産業教育への新しい展望を持たせるに至った。従来は漠然たる観念であったものが、産業の実体に触れて具体的な問題として認識されるに至った。彼らの最初に目に映じたものは、先進諸国との比較においてわが国の産業における労働力の一般的レベルが低いということであった。そこから当時の有識者は実業教育の振興を唱えるに至っているのである。実業教育が、日本の社会の要請としてこういう所から問題になってきたのは、産業教育というものの本質から考えても興味あることである。それらの所論は、たとえば手島精一や浜尾新の論文によく現れている。
 当時の有識者が特に関心を示したのは、急激に膨張しつつあった産業労働大衆のレベルアップの問題であったから、いわば大衆教育としての産業教育であった。当時、わが国の義務教育就学率はようやく50%程度という状態であったから、先進諸国の労働のレベルに比して著しく劣勢にあるという認識は当然であった。そこから職業と学業の一致とか、実業者に実際に資する教育とかという要請が出て来ているのである。このような状勢は、ただ工業のみにとどまるものではなかった。商業貿易の世界でも、外人商社に全く支配されていた商権の回復運動
の具体的な活動、農業における商品生産農業の進展というような実際的な問題と結びついて、産業に働く一般の人々の教育が要望されるに至ったのである。
 実業教育という概念は、こういう実体を地盤として成立して来た。これが実際に制度の上に実現したのは、明治20年代の後半になってからである。当時の文部大臣は井上毅であったが、彼は26年(1893)実業補習学校規程、翌27年徒弟学校規程、簡易農学校規程など一連の規程を制定した。そしてこのような方向を、一つの実業教育制度として、一本化するのに決定的な役割を果たす法律、実業教育費国庫補助法を制定した。これらの法令によって、それまで文部省以外の各省の管轄にあったもろもろの教育機関が、一つの教育制度の中に統一されることになった。
 以上を実業教育制度準備期とすれば、その実質が成立したのは、日清戦争後であるといえよう。戦後のあたらしい状態下で産業は急激に膨張し、産業革命は進展した。それを地盤にして、実業教育制度が具体的に成立した。それを形の上で示すものが明治32年(1899)の実業学校令である。急激に膨張する産業が、教育された産業人を要望するのに応えて制定したものということができる。つづいて明治36年(1903)には、専門学校令が制定され、実業専門学校を制度の中に明確にしたが、これも産業の要望にこたえたものということができよう。下の表は当時実業教育機関がどのように発展したのか一端を示している。(矢口 新)

<参考文献>「実業教育50年史」(S9),「産業教育70年史」(S31),「明治以降教育制度発達史」第3・4・5巻(S13,14),海後宗臣編「井上毅の教育政策」(S43)
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大正・昭和前期の産業教育

日本近代教育史事典(平凡社1971)p459〜60
産業教育/大正・昭和前期(総論)

 この期にわが国は二度の世界大戦を経験した。もちろん異なった立場においてであるが、この二度の経験はわが国の社会と産業を大きくゆり動かした。しかしそれを通じて近代産業社会が徐々に成立していった。明治後期に成立した実業教育制度は、この過程で産業と教育の具体的な問題に直面して、変貌をとげた。

 第一次世界大戦により日本の工業は飛躍的に膨張した。Photo_5 試みに大正15年(1926)の工業生産額を明治42年(1909)と比較してみると、総額では約10倍に膨張している。全体としてはまだ軽工業が圧倒的に多いが、金属、機械工業の伸びがきわめて大きいこともこの膨張の意味を物語っている。この期にようやく重化学工業の素地をつくりつつあったのである。
Photo_9 
この期における実業教育の発展もまた急激であった。大正4年(1915)から5年毎の学校数をみると、表のように約15年間に実業学校は500校余りから1000校へと倍増している。専門学校も同様である。この膨張は近代産業の形成の結果とみることができるが、同時に産業教育はこの状勢と正面から対決することになる。

この期においては、まず教育の一般的状勢として上級学校進学者が激増した。政府は内閣に臨時教育会議を設けて、新しい状勢に対処する教育の方策を諮問した。この臨時教育会議の答申によってその後の教育の方向が決定され、高等教育の大拡張等も実施されるにいたるのである。産業教育に関しては、全部で8項目にわたる答申をしているが、その第一項に、「実業学校ニ関スル現在ノ制度ハ大体ニ於テ之ヲ改ムルヲ要セザルコト」と答申している。その他、個々補助の増額、徳育の振興、行政機関の整備、学校に関する規定の緩和、職員待遇の改善、実業界との連繋、実業補習教育の奨励などである。この答申は基本的には、明治後期に成立した実業教育制度に対しては変更の必要を認めないという考え方に立っている。むしろ明治以来の方針を貫くべしとしている。臨時教育会議の答申はいずれの分野でも、大体は従来の方針に基づく拡張案という性格をもっているが、産業教育の分野でも、それが明瞭にあらわれている。

 大正9年(1920)に実業学校令の改正が行なわれたが、それにも以上のような考え方は明瞭に出ている。この改正の主な点は、第一条の目的の規定に、徳性の涵養を付加したこと、設立の主体として商工会議所、農会、その他これに準ずる公共団体を認めたことなどである。またその後、実業諸学校の規程が改正されたが、新しく職業学校規程が制定されたこと、甲種・乙種の区別を廃したこと。その他教育内容方法の整備に関することとして、学科の改善、実習の改善などがめぼしい点である。これらの改正の中で科目に関して、女子に関する規程が新しく付加されたのは時代の動向を物語るものといえよう。なお大正13年(1924)には、実業学校卒業者を中学校卒業者と同等以上の学力を持つものと認めるという文部省告示が出されているが、これも新しい状勢の進展を示すものであろう。従来このようなことが明確でなかったことは、それ自体実業学校に対する当時の考え方を示すともいえよう。
 大正末期から昭和の初期へかけて、日本の社会は深刻な不況に直面した。とくに農村の不況が深刻であって、農業教育は大きな批判にぶつかった。農村に不況克服のための教育機関として、塾風教育を中心とした様々な教育機関が誕生した。それは農業学校教育に対する不信ともいえるのである。商業や工業の部面でもこの傾向は現れている。一般の実業学校で得られないような教育内容、たとえば写真・自動車・通信・タイプライターなどを教育する各種学校が漸増しつつあった。また、工場内に見習工の教育、中堅工の教育などという具体的な目的と内容をもった工場学校をもつ企業や官営工場が現れた。これも実業教育に対する近代産業の側からの批判とみることができる。
 この批判に答える意味もあって、昭和4年(1929)、5年に実業学校の諸規定が改正された。昭和6年に満州事変が発生したことから、それ以後の教育は準戦時体制、戦争体制へと急激に移行した。政府は昭和12年(1937)教育審議会を設けて、この体制への教育改革を断行していったが、全般的には従来の制度の整理統合という性格のものである。実業教育に関しては、中等学校令によって中学校と一本化されたことは注目すべきことである。戦時色の強くなるに従って産業教育の実質的な重要さが認識され、とくに工業学校は大きな膨張を遂げた。青年学校制度、技能者養成制度もその点から強化されたのである。(矢口 新)
<参考文献>「実業教育50年史」(S9),「産業教育70年史」(S31)

行動的人間を育てる学習システム

「行動的人間を育てる学習システム」(パネル原稿)について

 昔「教育の近代化展」という展示会がありました。実は今も続いていて今年は43回だそうですから、計算がまちがっていなければ、始まったのは1964年ということになります。東京オリンピックの年、昭和39年ですね。実は昭和40年(1965)11月24-25大手町の都立産業会館が最初でした。
 この展覧会は財団法人日本映画教育協会(現在の視聴覚教育協会)を中心に、16ミリ、8ミリなどの映写機やスライド、OHP、レスポンスアナライザーなど当時最新の視聴覚機器のメーカーと、映画やスライドの教材制作会社、販売会社の団体が文部省の後援を受けて開催していました。今でも続いているようですが、最近はパソコン、電子情報ボード、そしてインターネットを使った教材の大きな展示会がほかにいくつもあって、教育の近代化展は影をひそめています。
 実は矢口新と能力開発工学センタ―は、この「教育の近代化展」の初期、60年代〜70年代に、企画、展示、パンフレット「明日を拓く」の編集などに全面的に協力していました。「教育の近代化」のその目標の姿を具体的に提示するために、能力開発工学センタ―の開発したシステムと教材が展示され、教育実践が映画で上映されました。
 ここに紹介するのは、この「教育の近代化展」(1970年前後?調査中)で発表した展示パネルの原稿です。当時の矢口の考え方がとても分かりやすく示されています。しかしその内容は、当時の人々が教育の近代化というものに持っているイメージを根底からひっくり返えすものだと思います。果たしてこのパネルは人々にどのように受け取られたのでしょうか。そのあたりもいずれ調べてみたいと思います。(尚、パネルにはイラストもついていますので、これもいずれ掲載する予定です。)

1 学習システムの転換はなぜ必要か?

(以下本文)
1−1 目標の転換

 <知識から人間へ>
近代百年の教育の目標は、知識の注入ということでした。知識を与えれば、それが行動するときの力になると考えていたのです。
しかし人間は知識をもつことによって、行動できるようになる動物ではないことがわかって来ました。人間の行動自体を形成することが必要なのです。人間すなわち行動が問題です。
教育は知識を与えることだという目標観を改めなければならないのです。

1−2 知識注入からの脱出

知識注入という考え方の教育は、必然的に学級集団に対する一人の教師による教育という形態を生み出しました。そこでは知識を詰めこんだ教科書と教師の講義という形式が重要な役割をもっています。
あらゆる教育が、一人の教師—教科書—生徒集団というシステムの中で行なわれてきました。このシステムを転換することが、現代の堕落した教育を救う道です。

1−3 学級体制からの脱出

学級体制の中であらゆる学習を処理しようということが、大きな間違いをつくっています。われわれはそれに気がついていませんが一人一人の学習者の行動を形成してやることが、いつの間にか忘れられました。グループの共同作業、共同思考も本格的には行なえません。じゅっぱひとからげの知識注入では、行動の習慣・態度を育てることもできません。
総じて人間不在の教育を生み出しました。

1−4 行動による学習

人間は行動させることによって行動することを習得する動物です。
行動の仕方を知識として与えても行動できるようにはならないのです。たとえば自動車の運転を考えてください。いくら行動の仕方を言葉で教えてもだめです。自分で行動する以外手はありません。
これは考えるということについても同じなのです。自分の目の前にある行動の対象に向かって考えさせることによって、考えることができるようになります。

1−5 システムの転換とは

知識を与える学習の場をつくりかえて、学習者が自ら行動して、自らの力で知識としてまとめる行動をさせる学習の場にすることがシステムの転換なのです。
機器を使うことがシステム化であるなどという考え方は、改めなければなりません。従来の教育方式で機器を使えば、人間不在の教育がますますひどくなって堕落するばかりでしょう。

2007年8月 2日 (木)

2 人間を育てる学習の基本は何か!

行動を育てる

2−1 与えることではない

人間を育てるということは、人間の働きをつくることです。働きとは行動することです。思考するのも行動です。
そういう行動を育てるには、対象に向かって自分が働きかけるという場で、神経を使わせることをさせなければなりません。話を聞かせてわからせるということではできないのです。
このことをはっきりと認識し解明しなければ人間を育てる教育は成立しません。

2−2 神経をつかわせる

われわれは長い間、あることをできるようにするには、そのやり方を教えればよい、それについての知識を与えればよいと考えてきました。これは間違いでした。できるようにするのは、そのことに対して神経の使い方を実際に訓練しなくてはならないのです。
つまり人間を育てるには、知らせることを考えるのではなく、学習者に神経を使わせることを考えなければならないのです。

2−3 技能や道徳的行動

以上のことは、技能の教育などでは最も具体的にわかります。しかし道徳的行動などについてもよく考えてみれば当てはまります。こうするべきだと教えたらそういう行動をする、などということにはならないことをわれわれは経験上十分に知っています。
道徳的行動も自動車の運転とおなじように、場に臨んで神経の働き方をつくらなければ形成されないのです。

2−4 考えるというのも行動

考えるということも行動の一種です。考える場合は行動の対象が言葉を媒介にしたイメージとして、頭の中にあるのです。
考えるという行動を形成するにも、手足を動かす行動と同じように、事柄(イメージ)に向かって神経を働かせることを訓練しなければならないのです。それには考えることをはっきりと提示し、あるいは自覚させ、それに対する神経の働かせ方をひとつひとつ積み上げていく必要があります。

2−5 能力とは行動である

人間には、さまざまな能力が必要だといわれます。社会的態度とか、国を愛する態度とか、創造的な能力とかいわれます。それらのどれ一つをとっても、それは具体的には行動としてあるのだということを忘れてはなりません。その行動自体が社会的であり、愛国的であり、創造的なのです。それはどんな神経の使い方なのかというように考えて、はじめて人間の育て方が明らかになって来るのです。

3 学習するシステムはどのように設計するのか

3−1 一人一人の行動の場をつくる

新しい学習システムを設計する基本的な考え方は、学習者一人一人の行動する場をつくるということです。学級を一括して教師と問答をするなどということでは、一人一人が責任をもって行動する場にはなりません。一人一人に対して行動(思考)する場をつくることです。集団討議でも一人一人が参加する場とならねばなりません。教師が中心になって学級を動かすという考え方をやめることです。

3ー2 目標行動を明確にする

教育の目標として知識・理解・態度・技能などと考えますが、それらもどういう対象に対して、どういう神経の働かせ方をすることなのかという考えで、一度検討し直すことが必要です。理解などというものも、学習者がどういう対象をどのように見て、どういう関係をとらえる行動かというように見直すのです。そうすると学習者という人間の、神経の働き方の問題が見えて来ます。目標となる行動を明確にすることです。

3−3 行動分析

つぎには、その目標となる行動を実際にやれる人をとらえてその行動する神経のあり方を分析する必要があります。またそういう行動のできない人と比べてみることも必要です。そうするとどういう神経の使い方が必要なのかということが明らかになります。行動分析で大切なのは、目に見える行動(表現)の背後にかくれている、頭の中の行動(測定)をとらえることです。ある表現がとられるには、必ずそうなる根拠があります。その神経の使い方をとらえることが大切です。

3−4 行動のプログラムをつくる

行動分析によって、神経の使い方がとらえられたら、その神経の使い方を学習者に実地に行なわせる場をつくるのです。つまり学習のプログラムをつくることで、その順序、その教材、その教材を提示する教具、その行動の結果を自覚し修正し、次に移って行く過程などを設計することがプログラムの設計です。必要に応じて、教育の機器を使うことが考えられます。学習プログラムによってどういう機器が必要になるかを考えることが大切です。

4 学習環境をどうつくるか

4−1 行動の場としての環境

これまでは学習というとすぐ教科書を考えました。そしてそれを注入することを考えました。これからの学習環境は、学習者が、どういう行動をするかを考えることが中心になります。たとえば理科では自然が教材です。それを観察し、整理するのは学習者がやることです。そこではじめて自然をとらえるという行動ができるようになります。
学習の環境を構成するものは、こう考えるとさまざまあるのです。

4−2 教材の考え方をかえる

教科書を中心にした教材の考え方は、整理された結論を与えるという考え方です。視聴覚k等材も、大部分は、講義の形式をとり挿絵のある講義にすぎないものです。
そういう教材でなく、生の材料を学習者に提示することを考えなければなりません。社会を学ぶには、社会の現象の中にはいりこんで行くのがよいのです。そしてしれを自分の目で見て、自分で整理してある結論を出すのです。その行動・思考が学習なのです。それがむつかしいときには、シミュレーションを考えるのです。

4−3 シミュレータの利用

人間生活の現実をそのままもって来て行動の対象にすることは、学習者にとって必ずしもよい環境にならないことがあります。
そういうときは、シミュレータをつかって教育することが考えられなければなりません。
これまで行なわれていた、実験や実習などのワークの中には、シミュレーションの意味をもったものが多くあります。そういうものの意義をもう一度掘りおこすことが必要です。

4−4 教育機器の利用

いわゆる教育機器といわれるものも、使い方を考慮しないと、教師の講義をただ機械で行なうにすぎないものになります。それはすぐれた機械を殺して使うことになります。
学習者に生の教材を提示し、学習者にどういう反応をさせるのか、というように考えて使わなければなりません。学習者が受け身でなく能動的に教材にとりくむように提示する機器が必要です。こう考えると機器が問題なのではなく、教材が問題なのです。

4−5 多様な生活の場

教材・教具ばかりでなく、教室や、学校全体の施設を学習者が積極的に自分で使うことのできる形態に改める必要があります。
これまでの環境は、すべて、与える方式を土台にして施設設備がつくられています。これからは、学習者が使う方式にならなくてはなりません。個別の学習に使えること、グループの学習に使えること、大集団でもつかえること、さまざまな使い方をくふうして環境をつくるのです。

5 トータルシステムを考える

5−1 教育時間は人によってちがう

知識注入、学級一斉の方式は、教育の期間をすべての学習者に一定にするという考え方を生み出しています。しかし本来学習の期間は、人によって違う方が当然なのです。学習者の到達点は誰もが一定の所まで到達すべきなのです。今すぐこういう方式に具体的に切りかえることはむずかしいのですが、そういう方向への努力が必要なのです。

5−2 目的に応じた多種な学習方式

学習の方式はそれぞれ目的に応じて考えられなければなりません。自然や社会の現象を整理し、認識する能力は一人一人がしっかり身につける必要があります。これは個別の学習でしょう。共同でワークし思考するという態度は、グループの行動で身につけるのでしょう。このように、目的とする行動能力に応じて学習の方式を生み出さなければなりません。

5−3 学習者中心の方式

従来学級教育方式で、なんでも教師が中心になってやってきた習慣があるので、多様な学習の方式が、教師に考えられなくなっています。教師が自分で働くのでなく、学習者を働かせる方式を考えて、多様な学習方式を生み出す必要があります。学習者は個別に行動することも必要です。グループで共同作業や集団討議をすることも必要です。それは学級のわくにとらわれていては不可能なのです。

5−4 教師の役割の転換

教師はこれまで、集団をうまくとりまとめて行くという仕事を中心にしてやってきました。集団の一人一人がどう成長するかでなく、その場その場で、集団がまとまって行けばよかったのです。そういう態度では、集団の中の一人一人を育てたり、その一人一人の力で集団の力がのびるということにはならないのです。教師は自分が中心になって、学習の場を取りつくろうということをやめるべきです。

5−5 教師のなすべきこと

教師の仕事の中心は、自分たちが受け持つ、集団の学習者の一人一人にどういう活動をさせるのか、どういう教材をあたえるのか、どうグループをつくるのか、一人一人といつ相談してやるのか、といったことを設計し、その動きをみてまた次の手を考えるという影の仕事にもっと重点をおくべきです。それには教師たちが共同して仕事をすることが必要です。集団の前で、講義をするという一人ぽっちの教師のイメージを捨て去る必要があります。ーおわりー

2007年8月 3日 (金)

プログラム学習における思考の訓練について

 1963(昭38)年9月、「教育フロンティア」という雑誌が教育出版から発刊された。サブタイトル「プログラム学習による教育の改造」。全国プログラム学習研究連盟責任編集とうたわれた活版刷り100余ページの季刊誌で、1965(昭40)年2月まで7回発行されている。
 国立教育研究所教育内容第二研究室長であった矢口は、1961年に学習オートメーション研究会を立ち上げ、翌年秋には約30の地方支部をもつ全国組織「全プロ連」を発足させ、委員長としてプログラム学習の研究と普及の先頭に立った。この雑誌はその運動の理論誌として、プログラム学習の理論、実践報告とともに、現場で作られた学習プログラムを多数掲載している。
 矢口は毎号、巻頭論文を書いているが、まず創刊号の「プログラム学習における思考の訓練について」をここに全文掲載する。
プログラム学習は、昭和30年代から40年代にかけて流行した教育と学習の方法原理であったが、いまはほとんど顧みられなくなった。なぜそうなったか。どこに問題があったか。プログラム学習のリーダーであった矢口の考え方をたどる必要がある。それは現在の教育課題を解決する鍵になるかもしれない。

以下はこの論文の冒頭に本文より小さな活字で書かれた前文である。
     ________________________
(前文)
 プログラム学習の方式では子どもに考えさせることができないのではないか、あるいは創造的思考をさせることができないのではないかなどという問題が出されている。それに対していまここにすぐ答えを出そうとは思わない。そういうことはもっと慎重に、また科学的、実証的に研究をしていくべきことだと思うからである。
 思考するとか考えるとかいうことも、わかったようでわからないことである。そういうことをもっと具体的にとらえてみる必要がある。教師の考え方を押し付けて子どもに考えさせないなどということがいわれるけれども、一体考え方を押しつけるとはどういうことなのか、従来のような授業だと押しつけることになるのか、ならないのか。プログラム方式だと押しつけることなのかどうかも、具体的に考えて見なければなるまい。「よく考えてごらん」などという言葉は教師によってよく使われるが、それは何を生徒に求めていることであるのか、そういうこともそれこそ具体的に考えてみる必要がある。

(以下、本文の見出し)
■人の話を聞くこと・考えること
■本を読むこと・考えること
■物を見ること・考えること
■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること

人の話を聞くこと・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■人の話を聞くこと・考えること
 人の話を聞くのは自分で考えることではないと一般には思われている。果たしてそうであろうか。なるほど話す人は自分で考えた結果を話す。その意味では聞く人は自分ではじめて考えているのではない。しかしはじめて考えているのではないが、聞いているというのはただ耳に聞こえているということではあるまい。そういうのも聞いているという言葉で表すかも知れないが、それは聞けども聞こえずの類であろう。聞けども聞こえずというのは心がそこにないからだという格言があるが、それは聞くということは心をこめて聞くことで、ただ音を聞くという問題ではないことを言っているのである。
 音はさまざまな符号の系列として耳に聞こえてくるが、それが鼓膜にふれて,大脳細胞に伝わるのである。そこで大脳細胞が符号に従って働くのである。それが話す人に全く同調していれば、話す人と同じように考えているということである。
 そういうように大脳が働かなければ、人の話しを聞いてもわかるとかわからないとか、正しいとか正しくないとか、おかしいとかいうことが自覚されないはずである。
 こういうふうにみると、人の話を聞くというのも正しい意味では、考えているということではないか。もっとも「四の五のいわずにおれのいうことを聞け」などというふうにいうこともある。これは聞くということが命令を意味する場合のことである。そういうときは四の五のということを否定する。つまり聞き手が聞き手としての考えをすすめることを否定する語がついて「聞く」という言葉を使っているのである。裏からいえば、聞くというのは本来は聞き手が聞き手として考えを進めて行くことであるから、特別にそれを否定するときは語を加えなければならぬということになるともいえる。
 さてこのように考えると、先生の話を聞くというのは決して考えないことではない。先生と生徒が一緒に考えていることなのである。ただ問題は一緒に考えることができるかどうかということである。聞くという立場に立って考えるときは、先生の話に同調するわけであるから、外の刺激で考えが進められる。その刺激の出され方が聞き手によってついて行けないような出され方の場合もあろう。そうなると聞き手は考えを進めることができないことになる。そういう意味では人の話を聞きながら考えるということは、よほどよい条件、つまり聞き手に適応した話が行なわれるという条件が必要である。
 「わかりやすく話してやる」などということを先生はよくいうが、そのわかりやすいというのは話し手の方の主観であって、本当にわかりやすいかどうかは聞き手の方の考えが進むかどうかということである。だから1学級50人の生徒がおれば、生徒の方の個性は50通りだから、その50通りの考えの進みに適応する話はなかなかできにくいということになる。聞く方のペースに合わせて話が出されるように考えればよい。
  同じ話でも、一人一人が自分のペースに合わせて聞けるように工夫ができればよいということになる。そういうことができれば、話をするということも考えさせることになるといってよいであろう。

本をよむこと・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■本を読むこと・考えること

 本を読む場合は、話を聞く場合の音が眼を通じて入ってくるということになる。その他の点では聞くということと変わりない。ただ文字を読むというのは、音の場合のように消えてなくならないから、その点は考えるのに有利である。自分で見直すことができるからである。くり返すということが可能になる。
 
 ところで、もう少し論をすすめてみる。これは話を聞く場合でも同じことであるが、文字の場合の方がわかりやすいからここで考えるわけである。たとえば文字は一つの符号であるから、それが指示する具体的な事実があるわけである。
 例えばここに問題にしている「本を読むことは考えることとどういう関係があるか」という文章でも、そこには本という符号で具体的なあるものを指示しており、読むということも具体的なある行動をとりあげているのである。しかしこれを読むものからすれば、本を読むという文字のつながりで頭の中に思い浮かべる事柄は人によって必ずしも同じではないであろう。本というのも、読むというのも、かなり巾の広い意味を含んでいるからである。ということは、文字に書かれていることを刺激として考える場合も、実際は読んでいる者が、自分のもっている物を材料にして読んでいる、考えているということである。そうして相手の書いたことを理解したといっても、それは自分のもっている限りの力で理解しているので、やはり自分なりの理解である。それが相手と全く同じかどうかは、もっとつきつめていかなくてはわからない。つきつめていけば、相当な所まで同調し得るであろうが、文字による場合はつきつめるということは普通行なえないことが多い。話を聞く場合だと、その場でつきつめることもできるが、文字の場合はむずかしいのである。
 しかし本質的に、話を聞く場合も、文字を読む場合も、自分のもっているもので考えているということは変わらない。外からは刺激が与えられているということである。自分が考えるから、相手の話がわかり、相手の書いていることがわかるのである。わかると思うのである。むしろ、自分で考えていることが自分でわかるということなのである。そして、相手をそう考えていると思うということである。
 
さてこのように考えてくると、人は話を聞いたり、本を読んだりして、自分なりに考えてわかっているということになる。この場合、自分で考えているのだということは大切なことである。ただ考えているといっても、それは、相手の話を聞いて、あるいは文章を読んでわかったと思うときにおいてそうなのであって、聞いてもわからない、読んでもわからないというのは、そのように考えられなかったということである。
(つづく)
■物を見ること・考えること
■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること

2007年8月 5日 (日)

物を見ること・考えること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■物を見ること・考えること

 さて次に、物を見ることと考えることとの関係はどうであろうか。見れども見えず、などという言葉があるように、見るというのもなかなかむずかしい言葉である。見てもみえないというのだから、見るというのは単に視覚だけではない。聞くということが単に音の問題でないと同じである。ごく簡単なこれは何々であるというように判別するだけの「見る」でもやはり、それとそれでないものを区別する働きがある。
 
 「これは悪い道だ」というのは、よい道との比較をしているのである。そうみているのは、そう考えているのである。しかしこの場合、聞くとか読むとかと非常にちがった性質があるのは、道は何も語ってはいないということである。これは悪い道だと考えるのは、全くこちらの考えることであって、道はそう言っていないし、書いてあるわけでもない。見る人、考える人の主観の問題である。だからある人は、その同じ道を歩いても、これは悪い道だと考えないかもしれない。たとえば、ふだんからそういう悪い道を歩いている人で、道とはそういうものだと思っている人は、これは悪い道だという判断をしない。そういうものとして見、考えないわけである。ふだんよい道を歩いている人は、道とはどういうものかという経験をもっているから、それと比べてこれは悪い道だというように考えるのである。しかしそういう人でも、その道を見るときの関心のあり方によって、これは悪い道だなどと考えないかもしれない。全く別なことを考えてその物に対していれば、例えば、狭いか広いかという関心だけに手中していれば、例えば、狭いか広いかという関心だけに集中していれば、その点だけが見えて、よしあしは見えない、考えないことがある。結局、関心の方向がそう考えさせるのである。

 関心の方向はある意味で無限だといえる。ただ理屈の上でいうなら、何でも関心の的になりうる。関心というのは「問」と言い換えてもよいであろう。この道は狭いか広いか、歩く道と車道と分かれているか、よいかわるいかなどというほかに、理屈の上では、食べられるかどうか、おいしいかどうか、金をもっているかどうかなどという関心もありうる。ただ私たちは道は食べ物ではないということを知っている。だからそういう関心をもたないのである。道に対して食べられるかどうかなどという問いを出したら気違いだと思われるだけである。つまり普通人ならば、その対象に対してどういう問いを出すか、関心を持つかはおのづから決まっているということである。

 われわれは現在あらゆる対象に対して、ある方向の関心を持つように作られている。教えられているといってよい。太陽は怒るかどうか、文字通り怒るというような問いは太陽に対しては出さない。昔はそうでなかった。現代でも未開社会ではそういう方向で関心をもつ人々もいるが、われわれは今はそういう関心はもっていない。一定の関心のもち方を教えられているからである。それが正しいかどうかは別のことであるが。
 
 ところで、話を聞く、書いた物を読むときのその聞かされる話の内容、読まされるものは、話し手、書き手の関心によって、考えが動いている。「この道は悪いですね」と語る、あるいは書くならば、それはその人がその関心をもとにして物を、つまり道を考えていることになる。聞き手、読み手はその関心に動かされて、その通りだと考えていかなくてはならない。

ところが、話し手、聞き手がなくて自分が道に対したときは、自分の関心によって考えを進めるわけである。その道への対し方は全く自分のものでなくてはならない。いかなる問いをもつかということは、自分の問題である。ここが話を聞くとか、書いたものを読むとかというときと異なるといわなくてはならぬ。つまり考えるという行動を導くもの、考えをすすめるもう一つの根底にあるもの、関心をもっていなくてはならぬということになる。いいかえれば、対象、今の例でいえば道であるが、道に対する関心のもち方、問いの出し方を身につけているということが重要であるということになる。(つづく)

■考えさせるということ
■関心のもち方を整理すること

考えさせるということ

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■考えさせるということ

 以上が予備的考察である。思考はどういう条件で進むかということを考えたのであるが、それは、これからその思考の訓練について考えるためである。これからが教育の問題である。思考の訓練の場の条件を考えるわけである。

 ところで、はじめに一つだけ前提を考えておかなくてはならぬ。ここで問題とするのは「思考の訓練」であって、従来とかく教育で考えられていた、分からせるとか、覚えさせるとか、教えるとかいったこととはニュアンスが異なる。ニュアンスばかりでなく、実は本質が違うのであるが、それはおいおいわかっていただけると思う。つまり、考えることができるようにするということを問題にしているのである。

 考えることができるようにするには、考えさせなければならぬということはいうまでもあるまい。考えさせるというのは、先の予備的考察からすれば、話を聞かせても、本を読ませても、物を見せてもできることはできるということはわかると思う。しかしその場合に大切なことは、話を聞いたり、本を読んだりするものの考えるという働きが大切なのであって、教師が話をすることイコール生徒が考えるということではないのである。教師の話が刺激となって生徒の思考が進まなくてはならないのである。聞けども聞こえずという状態で音を聞くのではない。聞くことイコール考えるという形で、聞く働きが進まなくてはならぬということである。

 それには聞きながらつかえるところがあったら、それがその場ですぐ解消されなければならない。生徒がつかえている間に教師の話が先に進んでしまえば、生徒は考える活動を中止しなくてはならぬ。それでは考える訓練をさせることにはならない。

ところで教師は一つの考え方を進めているのである。それを話しているのは、生徒にもそのように考えてもらいたいのである。それは話の変わりに文字で書いても同様である。それを読んでそのように考えてもらいたいわけである。一つでもつかえてその考えが進まないということがないようにしなくてはならなぬのである。そうするには教師は結局、ゆっくり、一くぎり一くぎりずつ話してゆく。あるいは読んでもらうということにするより仕方がない。そして一くぎり一くぎりわかっていって、全体がわかれば一応教師と同じように考えてもらったということになるであろう。
 
 しかしそれで考える訓練をしたことになるであろうか。それは確かに一つの段階ではあるが、考えるということはいつもそんなにゆっくりと進んでいるものではない。教師と一緒に考えてもらいたいと教師が思うことの中には、その考え方の筋がたどられるということの他に、時間的な要素も含んでいる。つまり一定のスピードで、そう考えてほしいのである。すらすらと考えてほしいということを含んでいる。そうなってはじめて、教師が考えたと同じように考えたことになるのである。そのような訓練が実は大切な訓練である。そこではじめてゆっくりと一くぎりごとに話して聞かせて、一緒に同調してもらう。その次にはもっと早めに話して同調してもらう。こうして教師が考えることと同じように考えることができるようになれば、はじめて、ある一つの考え方を身につけたということになろう。
 
 このプロセスは、何か一つの技能を身につけるプロセスとよく似ていることに気づくであろう。たとえばダンスを習う時、クイック、スロー、クイック、スローとはじめはゆっくりやり、くり返してしだいに早くなっていくプロセスを想像してみるとよいであろう。考えるということも一つの技能として身につけて行く必要があるのである。

 話をしたり、物を読ませたりして考えを訓練して行くには、上に述べたような配慮が必要である。そうなると、一番重要なことは、生徒のペースである。そのペースが次第に早くなって行けばよいのである。それは50人の一斉授業という形ではなかなか考えられないから、個別の方式をとらなくてはなるまいということになる。話を聞くのも、本を読むのも、結局同じように考えるというのであれば、話のかわりに、読む物によって思考の訓練をしてもよいことになるのではないか。(つづく)

■関心のもち方を整理すること

2007年8月 6日 (月)

関心のもち方を整理すること

季刊教育フロンティアNo,1 教育出版1963 p8-15
「プログラム学習における思考の訓練について」

■関心のもち方を整理すること

ところでここまでくると、そのようの教師の考えに同調するばかりでよいだろうかという疑問がわくであろう。
ここでも一つ考え方を改めなければならぬ。教師は考え方を訓練するためには、考え方の訓練をするという立場に立って、教育をして行くのである。今までのように何かを説明してわからせるなどという考え方でない。覚えさせるという考え方ではない考え方を取るのである。つまり論理の使い方を訓練するのである。
どういう考え方を訓練するかは十分計画的にねらわれなけれならぬ。それは最も大切なことで、この論文の中で順々に論じてみたいと思っている。今はそこまで考えないが、ともかく、教師は現代の社会がもっているものの考え方を代表して、生徒を訓練しているのである。ただ教師個人の考えていることを押し付けているのでない。一つのことに様々な考え方があればそれをそれぞれ訓練して行くのである。そういう考え方に立てば教師の考えに同調するというのは、実はわれわれの社会がもっているものの考え方を、生徒もたどることができるように訓練するということなのだというように考えることができるであろう。そういうことができるようにしないでは、人を教育したことにならない。人を育てたことにならないのである。

 さて、ここでもう一つの問題が出て来る。それは予備的考察で問題にした第三のことと関係があることである。
そこで物を見て考えるというのは、話を聞いたり、本を読んだりしながら考えるのと非常にちがった要素があるということである。物を見て考えるというのは、その根底に関心がある。自分自身の関心のあり方が考える筋を動かすのである。人の話を聞いたり、本を読んだりするのは、その関心は相手のもっているものである。問いの出し方は相手のもので、自分はその点については相手に従っておればよいのである。

 ところが自分が物に対したときは、考え方を進める関心の方向も自分のものなのである。何を問い、何という答えを引き出すかは、見る人にかかっているのである。前にも述べたように、我々は石ころに向かって、これはおいしいかなどという関心をもたない。関心の方向が決まっているのは、石ころについてあることを知ってるからである。その関心の方向を身につけているからである。知らず知らずにもっているともいえるかも知れない。そこで、物に向かって考えることができるようにするには、関心のあり方を身につけさせるという訓練があらかじめなされなくてはならぬのである。
 ところが話を聞くのも、本を読むのも、もっと本質的に考えると、物にむかって考えているのである。それを教師がある符号であらわしているが、本当はその符号、つまり言葉で指示しているものは具体的な物事なのである。自然のことであったり、世の中のことであったりするのである。そしてそれだからこぞ、その話を聞くのはただ考えを進めるだけでなく、同時にその物に対する関心のあり方を知らず知らず受け取っている。それが自覚的に、計画的に行なわれないので、自覚的、計画的に受け取られていないというだけなのである。
 物に向かって考える場におかれると、その関心の方向が出て来るのである。なんとなくであるが、関心の方向は決まっている。常識的な関心の方向は、物を見るとすぐにでてくるその外面の形とか、色とか、大小とかいったものである。そういうものについて判断はだれでもできる。知らず知らずその中にそういう関心を身につけているのである。

 さて、科学などで物を見る、考えるときには、そういう常識より一歩進んだ関心の方向が必要なのである。それが根底になければ考えは進まない。そういう物に対して、その物はどのような問いを出すものとしておかれているかという物への関心のよせ方を訓練することは、科学的な思考というようなことを問題にする時には特に大切なのである。そういう訓練はこれまで行なわれていない。今までの教育は物への対し方ではなく、ある対し方で対してとらえた結果だけを断片として与えることに中心があったからなのである。それが暗記というような受動的態度を生み出してくるのである。

 ところで物に対して一定の関心の方向で対しているが、その関心の持ち方が転換して、新しい関心から考えが進められるとき、独創的などという、そういう独創的なものは、本当に独創的と言われるためには、在来の関心の方向の整理の上に、それぞれのアンチテーゼとして出るものであろう。独走とはでたらめな思いつきではない。在来の関心の整理と関係ないものではない。だから独創的思考とは、そういう思考の結果をいうのであって、それは生徒に要求することはできない。生徒を訓練するのはそのプロセスである。正しいプロセスをふませる訓練をしなければならない。一つの物に対して、どのような関心がもたれているのか、それを整理してみるということ、それ以外に関心の持ち方はないのか、というように考えてみること、それを通じて、結果として独創的なものが生まれることもあるであろう。訓練すべきことは、そういう態度をもたせることである。一定の関心は、一定の考え方を伴う。目標は一体のものである。それをしかし、二つの教育訓練の同種としてはっきり考えてみることは極めて大切なことである。

 たとえば一つの関心に基づいて、考え方を進めて、それが行き詰まる、そのときは、その関心を一度考え直してみる。そして新しい問いの出し方をして、考え方を進める。こういう態度は大切である。それを具体的に訓練してやらなけば、本当に思考する世界に人間をいれることはできないのではないか。
 次にはもう少し具体的な事例で考えてみよう。(未完。次号へ)

2008年2月25日 (月)

「新教育と映画」(1950)

 これは 昭和25年(1950)、波多野完治が監修した「聴視覚教育新書1 映畫」に69ページにわたって掲載した論文である。戦後、中央教育研究所で視覚教育の研究と教材開発を行った矢口は、昭和25年国立教育研究所へ移ってからも教育調査や地域教育計画などに取り組む傍ら、映画教材の開発と活用に取り組んでいた。この論文にはその根底となる矢口の教育観、教材観が明確に示されている。今この中の「映画」という言葉を、コンピュータやデジタルコンテンツなど現代のさまざまな「メディア」に置き換えて読んでみると、今日の教育の課題が具体的に見えてくる思いがする。以下は第一章「視覚教育の社会的背景」の部分である。
 尚、波多野が「聴視覚」としたのはアメリカの“Audio-Visual"の直訳らしい。当時は映画教育という用語があったが、矢口は映画や幻灯(スライド)などの映像、つまり視覚メディアを教育に使うことを視覚教育と呼んでいたようである。
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(本文)
 「教育に映画を使おうというのは、単に教育の能率をよくしようとか、児童の興味を引くためだとかいうことではない。映画が今日以降の文化の発展に欠くべからざる因子であるという現実が、教育に映画を入れることを要求するのである。
 我々が今から作り上げようとしている生活の形がどういうものであるにせよ、それは現実から、現実を見て組み立てられねばならぬであろう。上からある形が与えられ、その方向へ動くというものではない。現実を見て現実を考えるということは難しいことである。現実は見えるようで見えないのである。特に流動する現実をつかむことはもっとも困難なことに属する。この役割を果たすのが実は映画である。これは観念的に固定した見方を却けることができ、あらゆるメカニズムを使って流動する現実をとらえるのである。映画は今後の文化建設のエネルギーとしての役割を果たすであろう。これが人間形成において映画を使う根本的理由である。
 映画はまだまだ未知のものを多くもっているものであって今後の課題である。しかしそれが教育において使われることによって、おそらく映画自身も新たな発展をとぐるであろう。それは現実のごとくほとんど娯楽としてのみ使われている状態から、新しい文化の道具としての意味をもつのである。このことは映画の新しい発見であるが、それのみでなく、実に人間自身の新しい発見をもたらすのであろう。そしてそれこそ、映画によって人間を育てようすることの根源の理由である筈である。
 我々は明治以降80年間の間に近代教育の一応の体制を整えた。そして80年間に我々の先輩が予想した近代的教育形態を実現したのである。我々の現在の教育の形は実は80年前の形なのである。
 この80年の間に社会はさまざまな進歩と変化を遂げたが、教育において、とくに学校生活の形において、80年間に幾何の進歩があったというのであろうか。我々は80年前の伝統の中に入り込んでいて、その惰性の中にあってなんら怪しまないでいる。しかし、一度眼を学校の外に転じて学校に帰ってくると、学校は社会の進歩とはあまりに遅れた姿で横たわっているのである。われわれは教育改革について、もっと真剣に、もっと現実的にならなければならないのではないか。視覚教育が主張されるのは、こうした教育の現実的な改造を実現しようとしているからにほかならない。
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★「新教育と映画」の目次構成は以下の通りである。
1.視覚教育の社会的背景  
2.カリキュラムの視覚化  
3.映画の教育的特性  
4.学習における映画  
5.映画鑑賞の学習  
6.映画教材の管理  
7.学習映画の製作  
8.結語

«関心のもち方を整理すること